ETAの悲しみを乗り越えて  2017年9月

1)バスクの陰とETA

2017年のいま、バスクは静かに美しく輝いています。

その輝きに重みを添えているのが、バスク現代史の苦悩だと思います。政治の犠牲者を弔う気持ちが、バスクの陰となって、この土地の雰囲気に荘重さを添えているような気持ちがしています。

バスクは、1939年から1975年まで、フランコ総統の政治体制下で苦難の歴史を体験しました。バスク固有の言葉であるウスケラは禁止され、永年の自治権も否認されました。同じ国民であるのに、他者に増して抑圧されることほど、プライドが傷つくことはありません。

そのため、1950年代からバスク独立運動が起こりました。1959年にETAが結成され、独立運動は密かに、そして組織的に行なうようになりました。

ETAは、バスクの言葉で、

Euskadi
Ta
Askatasuna

の頭文字を取ったものです。” ウスカディ・タ・アスカタスナ ”と読みます。意味は、”祖国と自由”です。スペインでは、ローマ字読みして、”エタ”と言い慣わしています。ウスケラの"eta "は、英語の”and” と同じ意味です。偶然かも知れませんが、意味深に考えられた略称のような気もします。

私は学者ではないので、細部の内容は、参考文献から引用しました。少し古くなりますが、「バスク民族の抵抗」(大泉光一著、1993年新潮選書)は、中立的な視点でバスク現代史を解説している本だと思いました。

19931025新潮社バスク
 (「バスク民族の抵抗」の表紙)

バスク民族の抵抗目次例199310
(「バスク民族の抵抗」目次中、ETA関する章)

日本人でも、1970年代から1990年代にかけて、高校や大学の授業でETAのことを習った方がいるかも知れません。
”スペイン北部のバスク地方では、分離独立運動が活発で、過激派組織ETAがテロを起こしている”
という趣旨だったと思います。

中央集権的な政府のもとに地方自治を最小化して運営する政治が最適、という視点です。
その結果、「目には目を、歯には歯を」のような考え方が出てきて、ETAの活動が、ますます過激になったという側面は、否定できないと思います。

今ならば、

”バスク地方では、ETAという政治結社を中心として、歴史的に認められてきた自治権回復運動が盛んであった。その一方で、ETA内の過激派が、武力闘争に走り、要人暗殺や施設爆破を行なった。”

くらいの書き方になると思います。

ほんの一例ですが、バスクの高等学校の教科書を見ると、
”フランコ時代の独裁政治と、バスク自治権回復や独立を目指したETAが活動”、という趣旨のことが書いてあります。

106ETAの創設と歴史
(ETAとバスク独立運動のことが書いてある高校教科書)

学究的なことを抜きにして考えても、ETAは、とても強力で統制の取れた政治組織でした。家族の誰かが入っていても、当局に逮捕されるまで、そのことが分からなかったと言われているくらいです。
1970年代から1980年代にかけては、アイルランド独立を主張するIRAと並んで、ヨーロッパ最強の武力闘争政治団体だという評価がもっぱらでした。

実際の活動も、筋金入りだったと思います。
殺害のターゲットは、反バスクの要人や軍事警察関係者に的を絞ってしました。建物の爆破は、予告をして実行していました。一般人の退避時間を与えるためです。それだからこそ、殺人という大罪を犯しながらも、ETAは密かな支持を集めていました。

その結果、日本人にとって「バスクは政情不安で危険」という場所になりました。観光に行くなど、もってのほかでした。

けれども、1980年代のビルバオ市内はのんびりムードで、要所要所の警備や荷物検査もありません。そんなことをやっても、意味がなかったのです。

「ETAは、ピンポイントで狙うから大丈夫」

と、私は言われました。

報道などによりますと、組織の内紛で、1986年9月に殺された元ETA幹部の通称ヨイエスさんは、ほんの1-2メートルの距離から撃たれて即死しています。当日は、町のお祭りで、多くの人々が出歩いていましたが、その他の誰も殺人事件に巻き込まれていません。


2)ETAの超過激化と終末

1978年憲法でバスク自治権が回復し、自治政府が活動し始めると、大多数のバスク人は、プライドをもって、自分たちの暮らし方が正々堂々できるようになったと思いました。

その一方、政治目標完遂を目指すETA過激派は支持を失い、やぶれかぶれになって、次第に無差別テロに走りました。2000年前後のことです。人を選ばない政治家の誘拐や、一般市民を巻き添えにした爆破事件を起こし、人々の支持は、さらにしぼみました。

ETA過激派も、世論を感じて、繰り返し武力闘争停止宣言を出しましたが、中央政府との間に、しこりが残ったままでしたので、テロは続きました。

先の高校教科書の例では、
”1976年以降、ETAは次第に過激化した。1990年代から2000年代にかけて無差別テロを起こすと、世論の反感が急速に高まった”という内容が書いてあります。

107ETA1976年以降
(はっきりと「ETAのテロリズム」と書いてあるETA末期の政治情勢)


3)悲しみを乗り越えるとき

2017年4月、ETAは何度目かの停戦宣言を出し、翌日には武器の隠し場所をフランス警察に教えました。

私は、このニュースを見て、今度こそ、本物の和解、本物の平和が訪れるのではないかと感じました。

ETA結成以来の犠牲者は、バスク側、中央政府側を合わせて800名以上とされています。権力者として標的にされた方もいれば、与えられた任務を遂行中に犠牲となった方、無差別テロに巻き込まれた方もいるでしょう。また、不合理な死を受け入れられず、ETAあるいは中央政府への恨みを決して忘れない遺族もいることでしょう。

けれども、それを乗り越えて、双方がお互いに歩み寄り、犠牲者と遺族に敬意を払う時が、ようやく来たような気がしてなりません。合掌。

バスク自治権否認から78年、ETA結成から58年。一瞬のうちに崩れた信頼と共存関係を取り戻すためにかかった時間は、ゆうに一世代分です。枕を高くして寝られる幸せの大切さが、心にしみわたる私は、たぶん、古い世代の人間なのでしょう。


4)ETAの気配

ビルバオ一帯では、30年前もいまも、観光客が街中をふらふらしたくらいでは、政情不安やETAの存在を感じることはありません。たまに、路地裏に”ETA”という文字の落書きがあったり、地元民が通うバルの奥にETAのロゴが見え隠れする程度でした。

いまでも、ETAに関連する政治課題は、いくつか残っています。
最大のテーマが、テロ犯罪者の受刑地復帰問題です。ETAがらみの受刑者も、スペインの一般的なやり方に従って、出身地の最寄りの刑務所で服役するべき、という主張です。

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( 受刑者の故郷帰還を主張するスローガンが書いてある壁。ゲチョ市内)


ビルバオ都市圏のゲチョ市内で、その主張が壁に書いてある場所を、私は通りました。週末には、昔風の雰囲気を求めて、ちょっとした散歩気分で人々が集まる場所です。

このテーマの解決が、和解と平和をさらに強固なものにすることを願ってやみません。


  了