やまぶきシニアトラベラー

気まぐれシニア・トラベラーの旅。あの日から、いつか来る日まで、かつ、めぐりて、かつ、とどまる旅をします。

2018年01月

ゲルニカでバスクを感じる

ゲルニカでバスクを感じる:Gernika


1) ゲルニカはバスクにあり

ゲルニカは、ピカソの「ゲルニカ」で有名な町です。戦争の悲劇を改めて心に刻む町です。それと同時に、バスクの心のふるさとでもあります。バスクの人々の魂を感じることができます。

「えっ、ゲルニカってバスクにあったの?」

30余年前、私も、ここに来て、初めてゲルニカがバスクの地名だということを知りました。マドリードの美術館で、本物のゲルニカを見て数年後のことでした。

21世紀のいま、ゲルニカのレプリカは日本でも見られるようになりました。JR東京駅丸の内北口のOazoビル1階のロビーにもあります。ときどき、その前をとおりますが、場面が混乱している様子が伝わってくる不思議な作品です。

232東京駅前オアゾビル1階にあるゲルニカのレプリカ
( 丸の内Oazoビル1階ロビーにあるゲルニカ。無料で見られます )

バスク人気が上昇するにつれ、ドノスティア(サンセバスチャン)や、ビルバオの知名度が上がりました。そのため、第二次世界大戦の記憶の町ゲルニカの知名度は、相対的に下がり気味です。これが、時の流れというものでしょう。

けれども、見方によっては、バスク旅行の日本人が激増すれば、ゲルニカに寄る日本人も増えると思います。話に聞いたり、マドリードで見たゲルニカの、実際の土地を体験する人数が増えることは、良いことです。実際、私も日本人ツアーの一行をお見かけし、仰天してしまいました。よくぞ、ここまで、という気分でした。


2) ゲルニカ交通事情

ゲルニカも綴りがウスケラ風になり、Gernika と書きます。以前は、Guernica と書いていました。
ここは、人口1万5000人くらいの、静かで、のんびりとしていますが、さびれた様子もない小都市です。観光ムードがあるのは、中心部のエリアのみです。行政上は、隣町と合併して、ゲルニカ・ルーモ:Gernika-Lumo となっています。

交通は、ビルバオからウスコトレン(バスク鉄道)で約50分、またはビスカイバスで45分くらいです。電車もバスも、平日は30分毎、土曜休日は1時間ごとの運転です。ゲルニカ駅に隣接してバスターミナルがあるので、迷いません。半日観光で気軽に足を伸ばせます。

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( ゲルニカ駅舎。バス発着場は、写真の右手100mくらい )


3) バスク議事堂でレンダカリ気分

はじめに、駅前の観光案内板を見るか、街中の観光案内所まで行って、ゲルニカ議事堂の場所や博物館、絵のレプリカの場所を確認しましょう。いずれも駅から徒歩10分圏にあります。

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( ゲルニカ駅前の観光案内板 )

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( 町の中心部にある観光案内所 )

駅を背にして、左斜め前の方の丘の上に建つのがゲルニカ議事堂:Gernikako Batzarretxea = ゲルニカコ・バッツァレッチャ です。フェリアル公園:Ferrial を通り抜け、ゆるい階段を昇ると、石造平屋建ての重そうな議事堂が見えてきます。築200年弱の建物です。世界遺産や国宝ではありません。

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( フェリアル公園。議事堂側からの景色 )

よく手入れされた周囲の芝生と、何本も生い茂る大きな木の緑が目にしみる聖地の雰囲気を持つ場所です。振り返ると、平凡な家並みの向こうに、青々としたなだらかな山並みが望めます。

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( ゲルニカ議事堂正面 )

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( 議事堂前から見るゲルニカ市街とビスカヤの山並み )

議事堂内部は、大きく二つの部屋に分かれています。入口そばの議場と、入口左の大広間です。
ここは、かつてはバスク全体の議事堂でしたが、のちにビスカヤ県の議事堂となり、いまでは、バスク州かビスカヤ県の儀式を行なう場所になっています。そのため、ほとんど一年中、見学ができます。観光客に優しい施設です。入場無料なので、ツアーで来ても、開館時間内ならば、必ず入場観光できます!

雨が多いので、ここにも日本製の「傘ポン」が設置してあります。日本人なので、思わず顔がほころんでしまいますが、係員は、「何がそんなに珍しいんだ」みたいな顔をしています。
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( ゲルニカ議事堂入口脇の傘ポン )

議場内部は、質素ですが品があります。天井の細工が見事です。また、壁面を取り込んでいる歴代ビスカヤ伯爵の肖像を見ていると、バスクの長い時間や、それなりに政治的に上手くやっていた過去のノウハウを感じます。
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( 議場風景。正面が議長席 )

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( 議場の天井。細工が見事 )

議場正面は議長であるバスク政府首班の席です。呼称は、「レンダカリ」: Lehendakari 。けっこう、かっこいい名前です。意味は、「おかしら」。現代風の呼称に引き直すと、大統領、社長、首班などなどでしょう。

ちょっと、あぶない脱線ですが、どこかの国の金髪の大統領様も、人工衛星と称するミサイルを発射してひんしゅくを買っている首領様も、昔風ウスケラで呼ぶならば「レンダカリ」で、ひとくくりだと思います。

議長席をじっと見ていると、歴代レンダカリが、粛々と議会を率いていた様子が脳裏を横切りました。

議場の隣りは、ロビー風の大広間。その奥に図書室、資料室があります。天井を仰ぐと、バスクの木を描いたステンドグラスが、無言で訪れる人々の上にかぶさっていました。

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( 大広間全景 )

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( ステンドグラスに描かれたバスクの木 )

私は、1986年9月にここに来たことがありますので、ここを見るのは二度目です。バスク議事堂の中では、時間がほとんど進んでいません。

ゲルニカ旧バスク議事堂会議の間198708
( 1986年当時のバスク議事堂の大広間。少しだけ変わった )


4) ゲルニカの木を感じる

ゲルニカの木を見るため、大広間の衝立を回り込んで外にでました。議場の方からも出られます。
この有名な木は、建物背後の庭で、ひたすら静寂を保って直立していました。

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( 三代目ゲルニカの木。四代目説もあり )

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( ゲルニカの木と、議事堂背後の建物 )

バスク州は、グルメツアーの地だということ以外、気にかけるものがないと、「ゲルニカの木」は、ただの木です。ツアー客のみなさんも、3分くらい眺め、写真を2-3枚撮ると帰ってしまいました。時間は短くとも、バスク気分を感じればよいと思います。

歴史的には、ゲルニカの木は、バスクのシンボルであり、バスクの人々のシンボルでもあります。

解説によると、バスク領主になったビスカヤ伯は、この木の下で、バスクの自治権尊重を誓いました。日本人にとっての、三種の神器に似た感じ方をするのが、ゲルニカの木かも知れません。普通の木だと分かっていても、感情移入してしまうのです。

ゲルニカの木を5分、10分と眺めていると、無言のプライドが木の周りを取り巻いているような気分になりました。心霊スポットのような求心力があるのかも知れません。

今の木は、30年前の木とは、明らかに違っていました。パンフレットによると、私が初めて見たのは、1860年に植えられた二代目でした。かなり大きく育っていましたが、とうとう2004年に枯れてしまったようです。そのため、二代目の実から育てた苗木を2015年に植え替え、三代目としたそうです。

ゲルニカ柏の木三代目198608
( 二代目のゲルニカの木。1986年の姿 )

ちなみに、この木の種類は、オーク:Oak tree と書いてあるので、樫の木のように見えます。しかし、実物を見ると分かりますように、ヨーロッパ柏か、ミズナラの木です。柏餅で使う柏の葉っぱのような、切れ込みがありますし、近くにある同種の木には、どんぐりがいっぱいなっています。


5) 初代ゲルニカの木

いったん議事堂を出て、庭に回りました。ギリシャ風の列柱に囲まれた、お堂の中に、初代ゲルニカの木の太い幹が保存してあります。きっと、村のどこからでも見えるシンボリックな樹木だったのでしょう。

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( 議事堂の庭と、初代ゲルニカの木の保存用お堂 )

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( 初代ゲルニカの木の幹回り )

日本でも、有名な松の木などが枯死すると、次々と植え替えていき、「今ごらんいただけます、太郎のマツは五代目でございます」なんて、ガイドさんが口にしています。あれと、そっくりです。

バスク人と日本人って意外と似通ったところがあるんだ、と感じました。


6) ゲルニカと戦争

ゲルニカの木を感じたあとは、街中へもどり、バスクの中小都市の雰囲気を味わいました。

また、1937年4月26日に起きた、ヒトラー指揮下のナチスのコンドル軍団による無差別空爆の悲劇を、思い起こしましょう。他所者の私ごときが言うことではないかも知れませんが、バスクの心のふるさとゲルニカだったからこそ、ここはファシストたちに執拗に憎まれたような気がします。

今では、平和博物館ができ、空爆の様子を、末永く語り継げるようになっています。街はずれの戸外にも、ゲルニカのレプリカがあるので、寄ってみました。

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( ゲルニカ市街地にある、ピカソの「ゲルニカ」のレプリカ )

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( 町の中心部にあるゲルニカ・ルーモ市役所(役場) )

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( 市役所の対面にある平和博物館 )

市役所から駅へ通じるあたりが、ゲルニカの中心部です。けっこう人通りが絶えません。この一帯が、空爆で壊滅した地区です。伝統的な外観をしていますが、実は20世紀建築がけっこうあります。市街地は、道に迷っても、しまったと気づいて5分も引き返せば、見慣れた場所にもどれる大きさです。こころおきなく、無心で街歩きを楽しみました。

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( 石造の立派なアーケードがある市役所通り )

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( 観光案内所の、はす向かいにある数少ない土産物屋さん )

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( ゲルニカ市民生活の中心、公設マーケット。左の丸屋根の建物 )

中心街の通りには、観光客もいるし、地元の若い人や老人もいて、けっこう活気があります。シャッター通りはありません。カフェが何軒もあり、思い思いに、おしゃべりをしたり、仕事の息抜きにピンチョスひとつ、コーヒー一杯を口に入れてスマホをいじっているネクタイ姿の紳士もいます。確かに耳に入ってくるのは、ウスケラが多いです。

私なりのバスクを感じて、ゲルニカを去ることにしました。


2017/9訪問、2018/1記    了


ニッポン人の嫌いな日本人

ニッポン人の嫌いな日本人


1) へんな奴、いやな奴

海外旅行をすると、へんな日本人、いやな日本人に出会うことがあります。

へんな日本人は、身のこなしや、言葉遣いがとてもユニークなので、世界中の人々から、へんな奴だと思われるので問題ありません。

困るのは、「いやな奴」です。日本人、それも、旅行者や、うぶな留学生だけに嫌がらせをするからです。

「どうして、そんな嫌がらせをするんですか?」
「自分の心の拠り所が、海外にいる、ということだけだからです。長く住んでいることを、ことさらアピールしたいのです」

いやな奴は、旅行者や、日の浅い留学生が街中で困っているのを見て、辛辣なコメントを言いながら助け船を出し、ものすごく尊敬のこもった眼差しで見られるのを期待しています。

私も、若き日のころ、ツアー客でお会いした方々に、少しばかり、こういう態度を取ったことがあります。今では、深く反省しています。たいへん、申し訳ありませんでした。

日本人はきらいですか
( 日本人ツアー。 パリのルーブル美術館にて )


2) いやな奴と観光客

いやな奴は、観光客として海外旅行をしていると結構出くわします。

才能があまりないため、もぐりの短期アルバイトで、観光シーズンにツアー客のお世話をすることが多いです。
「知識と経験豊富なオレが、何で、成金趣味をひけらかしているマナーの悪そうなオヤジやマダムに、ぺこぺこしなきゃいけないんだよ」

夫、または奥様の生まれた国に引っ越してきて、技能や資格がなくても取り組みやすい、観光案内や旅行補助サービスをされている方々も少なくありません。
「宅のパートナーは、格の高い白人さまですの。生活のため、仕方なく、あんた方の相手をしているんですからね。気安く話しかけないでくださいませんか」

こういうケースです。

前者は、態度が悪いので、すぐに見分けがつきます。けれども、後者はなかなか分かりません。学識の深い方が、奥深い質問をしたり、外国暮らしの長短を尋ねた場合に馬脚を表わします。辛辣な返事をしたり、無視したりするので、初めて相手の本性に気付きます。また、欧米系の人にのみ、愛想良くしますので、それで気づく方もいると思います。こういうブログでも、類似のケースはありそうです。

せっかくの楽しい海外旅行が台無しになります。ツアーの皆さんは、はっきりとアンケート用紙にXを書き、クレームをしましょう。個人的に遭遇した場合は、運が悪かった思い、早く忘れるようにしましょう。


3) パリ症候群

このような方々は、比較的、人気の高い観光地に多くいます。

「パリの日本人」とか、「パリ症候群」と言われている現象が、その代表的な例です。憧れやブームに釣られて行ったけれど、どこか不適応個所があったようです。

日本人旅行者に辛く当たるのは簡単です。一期一会なので、あとで恨まれても、屁の河童です。そういうことをすれば、本人はもちろん、土地の印象が悪くなり、もう二度と、そこに来ないかも知れないとは思わないでしょう。少なくとも、次回、ご自身が観光案内やビジネスのパートナーに指名されることはありません。リピーターという顧客を失います。

住んでいることが、無意識のうちにプライドのもとになっている方は、自分より博学で人徳のある日本人は敵です。せっかく、一般人以上の興味を示してくれた方に、奥深い話ができないことを悟られまいとして無作法になっても、人生は豊かになりません。


4) さらりと助け合い

過去を反省した私は、できるだけ日本人の助けになれるよう心を入れ替えました。

メテオラコリアン日本人
( 今では中国人、韓国人、日本人のどれか )

すれ違いざま、ツアー客の日本語が聞こえ、目があったら「こんにちは」と、声を出すようにしています。お土産屋さんで、店員さんに好みを伝えられなくて困っている日本人に、「代わりにしゃべりましょうか」と言って、うなづいていただいた方に、その場限りの助け船を出すのもいといません。「よい一日を」と言って、すぐに別れるのが気分の良くなる旅を続けるコツです。

中には、見ず知らずの日本人個人客の中年男性なのに、「あなたもニッポン人?」とか、「何やってんの?」と、いきなり尋ねてくる方もいます。ご自身との上下関係を探りたいのです。さらりと、「単身赴任の駐在員で」、とか、「1年契約の研究員で来ていて、今日は休みなので」とか、ウソを言うのも悪くありません。「このあとメシだから、いっしょに来たら?」という、添乗員さん泣かせのセリフには、「では、これで失礼するので」と答えて退散です。背後で、添乗員さんとか、ガイドさんが、ホッとした表情をしていた場面も記憶にあります。

さらりと、ご縁を楽しみ、同胞は助け合い、の気分が一番です。

                                                          2018年1月   了

















出船がくぐるビスカヤ橋

出船がくぐるビスカヤ橋

1) ビルバオ郊外のユニークな名所

ビスカヤ橋:Puente Vizcaya も、ビルバオ観光の人気スポットのひとつです。2006年の世界文化遺産登録以来、人気は上昇の一途。ウスケラ呼称は、Bizkaia Zubia,、ビスカイア・スビア。別名、吊り下げ橋:Puente Colgante です。

この橋は、運搬橋と呼ばれる構造。高いマストの船も下をくぐれるよう、トラス構造の橋桁が、ものすごく高い位置にあります。橋を渡る場合は、上部のトラスから吊り下げられたゴンドラに乗って対岸に移動します。橋と言えば橋、渡し船の変形と言えば、そうかなあと思います。
観光案内や、橋のたもとにある説明を見ると、同形式の橋は、ヨーロッパを中心に最盛期には10カ所以上あったようです。

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( 明け方のビスカヤ橋全景。 奥が海側、左ポルトガレーテ、右ゲチョ )

ビスカヤ橋は、ビルバオ市内を流れているネルビオン川の河口付近にあります。グッゲンハイム美術館からは10kmほど下流なので、歩いて行かれません。メトロ1号線に乗って、右岸のアレータ駅:Areeta 下車、または、2号線で、左岸のポルトガレーテ駅:Portgalete 下車、それぞれ徒歩約10分で着きます。両線ともに、電車の運転間隔は、7,8分から10分おきくらいです。

また、スペイン国鉄RENFEのアバンド駅から近郊電車に乗り、ポルトガレーテ駅で降りると徒歩3分くらいで着きます。メトロの駅とRENFEの駅は同名ですが、まったく別の場所にあります。電車の運転間隔は昼間30分毎、朝夕20分毎です。

他の方々の旅行記を読むと、丘の中腹にあるメトロのポルトガレーテ駅から歩きだすと、動く歩道があり、その先にビスカヤ橋の門型の橋脚が見えて感動する、と書いてあります。行きと帰りに別々のルートを取ると、楽しみがさらに増えそうです。


2) ビスカヤ橋周辺散歩

川岸に出ると、ビスカヤ橋の大きさに圧倒されます。華奢な割には、堂々として存在感抜群です。晴れても降っても、昼でも夜でも、人々の視界から消えることはありません。橋の周囲は、両岸とも長い遊歩道になっています。時間を多めに取って、いろいろな角度から見物しました。

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( 雨にむせぶビスカヤ橋。ポルトガレーテ側から下流方向を望む )

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( 青空に映えるビスカヤ橋。ポルトガレーテ側から上流方向を望む )

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( ゲチョ側からビスカヤ橋と上流方向を望む )

橋は、「門」の字形に鉄骨を組んで作った構造。橋桁までの高さは水面から45メートル、長さは164メートルです。

3) 見上げればエッフェル塔に通じる

この橋は、アルベルト・パラーシオ:Alberto Palacio というスペイン人建築家の設計で、1893年に完成しました。パラーシオは、パリのエッフェル塔の設計責任者ギュスタフ・エッフェル:Gustave Eiffel の弟子でした。ヨーロッパが、名実ともに世界最先端技術を誇り、繁栄を謳歌していた頃に活躍した方です。
「最新技術をもってすれば、昔の人が夢だと思ったことも、次々と実現できる」、と自信にあふれていたさまが、びんびんと伝わってきました。

改めて、ビスカヤ橋の橋脚を見上げました。師匠の作品と、鉄骨の組み方や、ゆるやかな曲線を組み込んだデザインなどが似ているような気がします。私は、建築家でないので、勝手な思い込みかもしれません。当時の鉄骨構造物の最新鋭技術の粋を集めて設計、建設したので、だれがやっても、似たような感じになったのかも知れません。竣工当時の色は黒。現在の赤茶色には、10年くらい前に地域住民の要望により塗り替えられたそうです。

255先生作のエッフェル塔と雰囲気似ている2005年8月
( パリのエッフェル塔。お師匠様の作品。1889年竣工 )

エッフェル塔基礎部4隅に表裏なし1989年8月
( エッフェル塔の基礎部分の鉄骨組み )

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( ビスカヤ橋の橋脚と上部トラスを見上げる )

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( ビスカヤ橋の橋脚内部を見上げる )

4) 橋は見るより渡るもの

ビスカヤ橋は現役です。ゴンドラに乗って渡れます。毎日、たくさんの市民と車を乗せて、ゴンドラはひねもす往復運動を繰り返しています。
また、観光名所としてトラス上部も歩けます。私は、こわいので行きませんでしたが、旅行記などを読むと、遠くまで見晴らしがきく絶景ポイントのようです。次に行くときは、誰かに手を引いてもらってでも、上に登らないといけません。

ちょっと眺めて引き返すのでは早すぎます。けれども、急ぎのツアー客は、国籍を問わず、すぐにUターンしてしまうようです。

「みなさあん、15分後にバスに集合です」
スペイン語のガイドさんが、おばさまたちに声を掛けています。
「えっ、スペイン人でも、こんな駆け足観光するの?」
「ええ、遠くから来ると、いろいろ見物するところがあるの」

思わず、目が合ったマダムの一人は、あらま、という顔している私の前で、こんな感じのことを言いたそうに、にっこり微笑んで去って行きました。おしゃべりの発音からすると、南のアンダルシアから来たツアー客のようです。

自動販売機できっぷを買うか、バリクカードを入場ゲートにタッチしてゴンドラ乗り場に入ります。
2017年9月現在で、料金は、歩行者40セント、バイク1.5ユーロ。クルマは7ユーロくらいで、割高です。クルマには定期割引みたいなものがあるかも知れません。

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( ビスカヤ橋きっぷ自動販売機。スペイン語、ウスケラ、英語 )

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( ビスカヤ橋自動改札。上部の突起がカードリーダー )

ゴンドラは、原則365日24時間営業。おおむね8分から10分間隔で両岸を行き来しています。両側が歩行者用の立ち席、真ん中の露天空間が、二輪車、クルマ用です。大型バスやダンプカーは乗れません。ですから、観光バスで来たら、橋を一往復しましょう。レンタカーならば、フェリーのようにゴンドラに乗って橋を渡りましょう。

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( 改札内の待合スペース。ゴンドラ接岸まで待機 )

ゴンドラは、到着すると、いったん人とクルマをすべて降ろします。その次に、入場ゲートを開けるので、ゴンドラに乗ったまま往復することはできません。

ビスカヤ橋が、いくらビルバオ屈指の観光名所だと言っても、特別な場合を除けば、昼間の利用者は市民8割観光客2割です。観光客は、国籍を問わず、ゴンドラに乗る前からウキウキ気分です。窓の外を見たり、動画撮影の準備に余念がありません。市民は、冷ややかな顔つきで壁に寄りかかっていたり、スマホをいじっていますが、チラチラと観光客に目線が行きます。
「おおっ、今日はニッポン人か中国人観光客がいるな」と、興味津々なのです。

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( ゴンドラ内部。 景色を見ているのは、ほとんど観光客 )

ゴンドラは、合図のブザーに続いて、すぅーと動き出します。とてもスムーズで、音や振動はほとんどありません。約2分で対岸に着きますが、接岸時にも、極めて軽いショックがあるくらいです。立ったままで、何ら問題ありません。

クルマ用の甲板は、専用の係員の誘導に従って乗り込み、ハンドブレーキを下げて、しばし待機します。バイクや台車は、3台ずつ2列に並ぶクルマとクルマの間に入ります。車両の動きが止まると、係員が料金徴収に回ってきます。やがて、安全バーが閉まり、ブザー音に続いてゴンドラが動き出します。

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( ゴンドラの甲板の様子。昼間はクルマも満車ではない )

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( 安全確認をするゴンドラ甲板係員 )
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( 対岸に着いて先に進むクルマ )

この辺りの手順は、多くの人が興味深げに書いています。

「ところで、この程度だと、クルマが暴走して落ちたりしないの?」
「実は、あったのよ。2,3年前に1台、川に落っこって、運転者さんが亡くなったの」

テレビのトップニュースになったりして、ビルバオ市民は、びっくりしたようです。
ご冥福をお祈りします。


5) 橋の近くに渡し船

私たちは、ビスカヤ橋のユニークさ、巨大さに圧倒されて、しばし両岸を行き来します。
ちょっと、落ち着いて周りを見ると、ビスカヤ橋の上流、ほんの200メートルくらいの場所に、渡船があります。なんで、こんな目と鼻の先に、似たような渡河サービスが併存しているのか理由は分かりません。

料金は35セント、運航間隔も5分から10分毎です。20人乗りくらいの小さなボートが、ミズスマシのように川の両岸を行ったり来たりしています。
川面の低い位置からビスカヤ橋の雄姿を見られそうなので、乗船しました。

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( 渡船風景 )

期待に違わず、低い目線から眺めた橋は、いっそう、そそり立った感じを出していました。


6) 超ラッキーチャンス

超ラッキーなことに、ビスカヤ橋の下を、中型船がくぐりぬけるところを、この目でしっかり見ることができました。具体的な数字は分かりませんが、ビルバオ都心部の埠頭が縮小され、川沿いの工場や造船所がなくなって以来、ある程度大きい船は、ほとんど通らなくなったようです。

その日は、前日まで、ビルバオ都心の埠頭でイベントに参加していたグリーンピースの船が、外洋に出るため、川を下ってビスカヤ橋に接近してきたのです。

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( 川を下ってきたグリーンピース船 )

船は、けっこう速く接近してきます。船が警笛を鳴らしたり、川岸のサイレンが鳴って、船の接近を知らせたりすることはありません。係員が、目視で船を確認します。そして、ビスカヤ橋のゴンドラは接岸したまま待機となり、渡船は出航見合わせとなるだけです。

渡船に乗っていた私や客は、市民、観光客を問わず大興奮。持てる者は、皆、カメラやスマホを出して船べりからレンズを構えます。橋のゴンドラでも、乗客たちが、レンズを船に向けている様子が、ガラス越しに見えました。

船は、どんどん近づいてきました。
そして、あっという間にビスカヤ橋の下をくぐります。だいたい15秒くらいの瞬間芸を見ている気分でした。

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( ビスカヤ橋直下に近づく。ゴンドラは接岸待機状態 )

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( ビスカヤ橋の真下あたりを進む船 )

マストから橋桁まで20メートルくらいの隙間が残っていますが、従来タイプの橋ならば、中型船の高さでは、絶対に橋の下をくぐりぬけられません。

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( グリーンピース船がビスカヤ橋の真下を過ぎたあたり )

みんなでワーワー言いながら、写真や動画を撮っているうちに、船は河口に遠ざかって行きました。


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(  出船は次第に遠ざかりて )

そして、ゴンドラは再び動き出します。ものの1分もしないうちに、いつものビスカヤ橋風景が戻ってきました。

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( 去りゆく出船と、運航を再開したビスカヤ橋のゴンドラ )

私は、偶然、渡船上にいましたが、他のお客たちが船頭さんをせっつきます。少し、橋の方へ動いて、出船を追いかけるようにしてよ、と言ったみたいです。そのため、いつもより、湾曲しながら渡船は対岸に着きました。

そのおかげで、私も、大変貴重な場面を、この目で見ることができました。
”ビルバオに入る大型船の航行を妨げないために、橋桁を高くした運搬橋を作った”、というビスカヤ橋の存在意義を目の前で見せつけられました。もう、ぐうの音も出ません。大満足です。


7) ビスカヤ橋、煌々(こうこう)

ビスカヤ橋は、観光名所である前に市民の交通手段です。
ですから、朝夕のラッシュもあり、昼夜、天候にかかわらず営業しています。
スペインの日の出は遅く、夏でも7時前後、冬は9時過ぎにならないと明るくなりません。ですから、7時から8時前後の朝の通勤通学時間帯は、たいてい夜明け前です。

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( 闇にかすかに浮かぶビスカヤ橋 )

ビスカヤ橋のゴンドラは、白い蛍光灯を煌々とともして、すぅーと、黒い水面の上を行ったり来たりしています。朝夕は、クルマも、じゅずつなぎとなるのでゴンドラに乗るまで1回か2回待ちです。

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( 煌々と蛍光灯をともして往復する朝のゴンドラ )

橋のライトアップサービスはありません。川岸の街灯の光を受け、暗闇に浮かぶビスカヤ橋は、無言ながら、着実に使命を果たす縁の下の力持ちのような姿を見せています。水面でゆらゆらと揺れている明かりが、とても幻想的な雰囲気を醸し出していました。

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( 夜明け近くのビスカヤ橋の雄姿 )


ビスカヤ橋を見渡せるバルでピンチョスをほおばり、坂道の陰から顔を出す橋桁風景に心をときめかせ、ハイソなゲチョ市内散歩にうっとり気分となるなど、この一帯には、まだ、いろいろな楽しみ方が残っています。

そして、多様なビスカヤ橋の光景を見ていると、ビルバオの優しく心にしみ込んでくるような雰囲気が押し寄せてきて、感極まってしまいそうです。


                                                      了  2017/9観光

まぶたの奥にバルマセダ

まぶたの奥にバルマセダ  Balmaseda

バルマセダは、私のバスクの原風景です。

バスクに初めて来たのに、何だか家に帰ってきたような気持ちになった場所でした。1986年9月のことでした。穏やかな山の稜線、適度な湿り気、優しいけれどもベタベタしない人々が、とても居心地の良い空間を創り出していたと思います。

世界中に、自分とそっくりさんは三人いると言われています。もしかしたら、自分の家にいる気なれる場所も三カ所あるのかも知れません。

バルマセダには、白砂青松の海も、深山幽谷もありません。
けれども、草の上にすわり、木々の茂る何の変哲もない山々を見ていると、永遠にまどろんでいたい気分です。

バルマセダ快晴の市街全景198708
( バルマセダ市街を丘の上から見る )

畑では、生垣仕立てのブドウの葉っぱが、さわさわと微風に揺れていました。ふたりですわって、ゆっくりと流れる時間を過ごしたい場所でした。たまに通る列車の響きが、夢と現実をつなぐ合図のように聞こえました。

このブドウ畑も、家庭菜園のひとつです。10月になると、家族の手を借りて実を摘み取り、自家製チャコリを作ります。

FEVEバルマセダまでもうすぐの鉄橋1990年7月
( ブドウ畑にそよ風は吹く )

バルマセダは観光地ではありません。当時はバスクムードも、ほとんどありません。いわゆるカステヤーノ系の住民が多いバスク州ビスカヤ県西部の山あいの街です。中世のロマネスク様式の石橋と、中心部の役場や古風なビルくらいが目立つ程度です。あとは、自分と旅先のウマが合うかどうかでしょう。

バルマセダのローマ橋198708 (2)
( バルマセダ唯一の観光スポット、ロマネスク様式の石橋 )

バルマセダローマ橋の上198708
( 静けさでいっぱいのロマネスク様式の橋を渡る )

私は、バスクという地域が、自分にとって、こんなに良く眠れる場所であったことを、心から悦び続けています。


バルマセダ町の中心部198708 (2)
( 町の中心の広場とビスカヤビルバオ銀行支店 )

バルマセダ町の中心部198708 (1)
( バルマセダの土曜市のにぎわい。現カルチャーセンター前 )

198709バルマセダ中心の教会 (2)
( 町の中心部にそびえるカトリック教会 )

198709バルマセダ中央の
( バルマセダ役場本庁舎 )

街の表通りを一歩入ると、発足間もないバスク警察署があったり、雑草が茂る川岸風景に出くわしました。通りは週末の市の立つ日以外は、いつも静かでした。ガラス張りのテラスの窓枠が特徴のバスク風ビルも、ちょっぴり田舎風です。

198709バルマセダのバスク州警察前
( バスク警察のバルマセダ事務所のはず )

バルマセダの川岸198708 (1)
( カダグア川の流れ。清流ではないけれど )

バルマセダのローマ橋198708 (3)
( 水草、ごみ、雑草の茂っていたバルマセダ町内のカダグア川 )

バルマセダ風景198708 (1)
( 新しい住宅街。住み心地は旧市街より良い )

町内を貫流するカダグア川:Ri*a Cadagua の上流は、バルマセダ・ダムで、ビルバオの水道の水源のひとつです。ダム湖脇の公園をゆるゆると歩いていると、緑がむんむんします。日本にいるのと同じ気分です。ダムの奥に見える山々の向こうに4、5時間も行けば東京の我が家に帰り着くような錯覚になりました。

バルマセダダム湖198608 (1)
( バルマセダ・ダム )

バルマセダダム湖198608 (3)
( バルマセダ・ダム湖と青い山々 )

とうとう鉄道や飛行機を乗り継いで日本に戻る時がきました。
FEVEでは、まだディーゼルカーが走っていたころの物語です。

FEVEバルマセダ駅まだDC1990年7月 (2)
( ビルバオ行き気動車と貨物列車。バルマセダ駅 1986/9 )

FEVEバルマセダよりレオン方面1990年7月
( バルマセダを後にして。また来る日まで (イメージ画像です) )


バルマセダでもビルバオでも、ニッポン人はおろか、ガイジンを見かけることは稀でした。あまりに少なすぎて、ガイジンは誰の目にも留まりません。空気のように見えない存在だからこそ、誰にもじゃまされず、永遠の惰眠をむさぼれるのかもしれません。

また来る日まで。そして、歩み続けよバルマセダ。


2018年1月  完


難読の国境HENDAYE

難読の国境HENDAYE    2017年9月

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 (  Hendaye駅付近からスペイン方向を俯瞰 )

かなり理屈っぽい一文です。

日本人にとって、陸路の国境越えは、貴重な体験ですので、旅行記やブログにも、しばしば登場します。

バスク地方は、フランスとスペインにまたがって広がっています。EUのシェンゲン協定という条約加盟国間では、原則として国境の検問を行なっていません。ですから、私たちが県境を通過する感覚で、フランスとスペインは行き来できます。

フランス側の国境の町は Hendaye、スペイン側は Irun です。

「さあ、何て読むんでしょう」
「XXXXX、とイルン」

イルンは、99%以上の人が正解します。けれども、フランス側の地名が、なかなか発音できません。フランスでも難読地名のひとつです。
「アンダイ」と発音します。アクセントは、「ア」にあります。やや鼻にかかった、かっこつけたような「ア」の音です。「ア」ンダイと聞こえます。

近隣の人たちが口にしたり、SNCFの電車の案内放送を聞いていると「”ア”ンダイ」という音が分かるのですが、つづりだけ見ると、迷ってしまいます。字数に対して、発音も短いです。

アンダイエ、ヘンダイエ、エンダイエ、などなど。少しフランス語の知識があると、Hは発音しないということを思いだすので、アン・・・とかエン・・・・とか言い出すようです。

おまけに、スペイン語では、Hendaia=エンダイア、という呼称なので、余計に混乱します。
「どうして、こうなるの?」と、言葉の持つ複雑さに、ため息をつかざるを得ません。

この町は、1940年10月23日、ドイツのヒトラー総統とスペインのフランコ総統が会談した現代史上のポイントです。「アンダイ会談」と呼んでいます。ドイツはスペインに参戦を強く促しました。けれども、スペインは第二次世界大戦に参戦しませんでした。また、町内の教会に古いバスク十字架があります。

( アンダイからイルンを望む。上1987年、下2017年 )
198609アンダイ駅からイルン方向手前EUSKO鉄
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※アンダイの対岸の右手方向がオンダビリア

フランスからスペインへ鉄道で行くと、この町か、バルセロナ側の国境を通過します。私も初めてここを通過したのは1984年です。TGVができる前でしたので、夜行特急「プエルタ・デル・ソル」という列車に乗り、深夜1時に国境に着きました。二つの国の鉄道は、線路の幅が異なるので、例外を除き、国境駅で車両を乗換えなければなりません。当時、フランス発の国際列車は、必ずスペイン側のイルンまで乗り入れていましたので、アンダイ下車はなし。寝ぼけまなこで、人の流れについて、列車を乗換えたので「アンダイ」の音さえ聞いていません。

1986年になって、初めてスペイン側からフランス側へ移動する際、今度はアンダイ始発の列車にのるために、ここにやってきて、初めて実地で「アンダイ」という音を聞きました。
「こう発音するんだ」と、つづりと耳に残った音を比較して、フランス語のトリックにひっかかたような気分。「どうりで、みんなが分からないわけだ」、とも思いました。

SNCFのアンダイ駅は30数年経ても、ほとんど同じです。両国とも通貨がユーロになったので、駅前に軒を連ねていた両替商は、ことごとく撤退。2017年現在は、のんびりとした田舎町の風情です。

EUの経済統合を肌で感じました。日本と近隣諸国の関係に、少し、気をもんでしまいました。

(SNCFアンダイ駅舎。上1987年、下2017年 )
198608アンダイ駅
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( アンダイ駅を発車するSNCFの上り普通電車TERアキテーヌ。特急ひたち号と似ています )

アンダイとイルンの間には、ビダソア川:Bidassoa  (スペイン語:Bidasoa) が流れています。鉄道と並行して国道の橋があるので、鉄道のみならず、バスやクルマで、ここを通る日本人はたくさんいらっしゃると思います。

列車の乗換で右往左往していると、何が何だかわからないうちに電車が動きだしてしまいます。だから、これが、国境体験なのかと後で振り返ってみました。

また、アンダイの対岸はスペインですが、河口付近は、バスク風街並みが美しいと人気上昇中のオンダリビア:Hondabirria という町です。もののはずみで、向こうよりアンダイ側を眺めた方もいらっしゃるはずです。

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( ビダソア川と、RENFEとSNCFの共有の鉄橋。背後右がオンダビリア方向 )

何かの縁ですから、アンダイのことも記憶にとどめて旅を続けます。


                                                            了



バイヨンヌでバスク買い

バイヨンヌでバスク買い   2017年9月

1) お買い物はフランスで

初めてフランス側のバスクに泊まりました。バイヨンヌ:Bayonneでお土産を買い、老舗のチョコレート専門店に寄るためです。

「何か、お買い物も、したいなあ」
「いい年こいたシニアが、OLみたいに」
「収入があるうちに、名物買っておこっと。それに、おいしいレストランにも入ろっと」
と、いう気分です。

フランスでもバスクの食に対する評価は高いです。

バイヨンヌのハム:Jambon Bayonne、と言ったら、フランスで”高級ハム”と、ほぼ同じ意味です。
うそか誠か、フランス語の授業で、先生は、「チョコは、バイヨンヌが発祥の地だよ」と言っていました。パリに、アトリエ・デュ・ショコラ:L'Atolier du Chocolats という感じのよいチョコレート店がありますが、そこの本店もバイヨンヌです。
ガトー・バスク:Ga*teaux Basque という名前の焼き菓子も有名です。
バスク・リネンと呼ばれる布製品は、フランス・バスクが本場です。エスパドリーユ:Espadrille という布製の履物もフランス・バスク産です。リネンのお店はサンジャン・ドゥ・リュス:St. Jean de Luz やビアリッツ:Biarritz に多いとのことですが、バイヨンヌにも数軒あることもチェックしました。

また、ETAが政治声明を出す場所は、だいたいバイヨンヌでした。フランス・バスクの行政の中心地だからです。
海辺のリゾートであるサンジャン・ドゥ・リュスやビアリッツに行っても、一人旅のシニアは、寂しさが募りそうです。

だから、フランス・バスクで寄り道するならばバイヨンヌに泊まることにしました。

結論を言っておきます。
「バスクでお買い物をするならフランスで」、です。
スペイン側には、マグカップとか、Tシャツみたいな土産品しか、今のところありません。何だかんだ言っても、フランスは、やっぱりお買い物大国です。また、フランス・バスクの名産品をスペインでは、ほとんど売っていません。食べ物以外で、”これぞ、私のバスクの思い出” という品物を買いたい旅行者は、フランス側に行くことをおすすめします。


2) バイヨンヌ、バヨンヌ、バヨナ?

バイヨンヌは、Bayonne とつづります。けれども、実際に耳で聞くと”バヨンヌ”に近い音です。”バヨンヌ”くらいなのかも知れません。外国語の地名、人名の書き方は、けっこう難しいです。

ウスケラ、つまりバスク語では、この都市名は、Baiona です。”バヨナ”、”バヨナ”と発音します。決して、”バイオナ”とは聞こえません。

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( バイヨンヌ市内の地名表記。ウスケラ併記は少ない )

日本では、”バイヨンヌで決まり”、という感じでガイドブックや地図に書いてありますが、先ほどのハム:Jambon Bayonne を音読すると、”ジャンボン・バヨンヌ” と聞こえます。”絶対、バイヨンヌ”、とは言い切れない感がしています。

たまに、日本的にアレンジされた地名表記について考えることも必要です。当地に旅行に出かけて、あまりにも日本的な読み方で発音すると、それどこ、みたいな顔をされるからです。明治時代の大学者や文豪が、誤読してカナ書きにしたのが、そのまま通用している例が多いとのことです。権威の影響力の負の一面を垣間見たような気がします。

バイヨンヌは、ガイドブックに書いてあるように、主流アドゥール川に注ぐニーブ川の合流点に市街地が形成された河港の街です。ピレネーに発し、下流のビアリッツに注ぐアドゥール川は水量も多く、悠々と流れていました。バスクの余裕を象徴しているような光景です。
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( アドゥール川と、右岸のバイヨンヌ新市街。バスクムードなし )


3) フランス・バスクの洗練:Pays Basque

フランス側のバスクは、スペイン側以上に洗練度の高い地域です。
「フランス側は、フランスのバスク地方」だと感じました。スペイン側に行くと、「マドリードやバルセロナとは異なる独特で高級なバスク」だと感じます。同じバスクでも、いろいろあるんだなということが体感できます。

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( バイヨンヌの典型的な旧市街風景 )
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(スペインのドノスティア(サンセバスチャン)の雰囲気と少し違う)

そもそも、観光案内所からして、フランスっぽいお洒落な造りです。

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( バイヨンヌ市観光案内所。バスク広場:Place des Basques  )

「あんた、それは、ちょっと違うよ」
「えっ?」
「パリとか、ボルドーとかが、俺たちバスクの雰囲気に似てるんだよ」
そこまでは、言い過ぎだと思います。

どこが印象の決め手になっているのか、考えました。
自然は、緑いっぱいで、フランスっぽい感じです。
建物の壁や屋根の色使いが、少し色のついた白や灰色系が多く、茶色系が多いスペインと異なった印象です。
総じて手入れがよいので、普通のビル街でも清潔感、金持ち感が強くにじみ出ます。
案内表記や看板がフランス語なので、フランスだと思い込んでしまいます。

このような要因が重なり合って、フランス・バスクの印象となっていると思いました。
もちろん、大聖堂やニーブ川の両岸を中心とする観光の中心部は、バスクムードいっぱいの建物が視界に広がり、観光客も大満足です。


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( ニーブ川両岸の観光地区はバスクムードいっぱい )

バイヨンヌ旧市街を二分するニーブ川の両岸には、バスク風に窓枠を濃い緑や赤茶色に塗ったマンションが立ち並んでいます。上の写真左が、グラン・バイヨンヌ:Grand Bayonne でお店いっぱいの地区、右がプティ・バイヨンヌ:Petit Bayonne で、主に閑静なマンション街です。

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( バイヨンヌ大聖堂近くの、お土産屋通り )

バイヨンヌの街のシンボルは大聖堂ですが、窓枠の印象が強烈なマンション群は、川の両岸にほぼ集中しています。大聖堂から坂を下った旧市街のショッピング地区もバスク風建築が多いです。観光客は、やっぱり、こういうバスク風を見ないと気持ちが収まりません。


4) お買い物するぞ

お買い物にバイヨンヌに来たので、お店を見て歩きます。21世紀のシニア男性は、むかしの男と趣向が変わってきたのです。

まず、良さようなレストランで、フランス・バスク料理を味わいます。ランチタイムは1時ごろからです。
近くの海辺で採れた小魚のフライがあったので、前菜として注文しました。地産地消なので、とても美味しいです。

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( ニーブ川岸に並ぶバスク料理店 )

食後は、大聖堂を見学しがてら、お店の並ぶ通りを歩きまわりました。
食料品では、質の良いハムや地元のチーズに目が離せません。生ハムは日本に持ち込むことができないので要注意です。

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( バイヨンヌ中心部の食料品店 )

続いて、バスクリネンを物色です。
事前情報のとおり、リネン専門店が数店あって、私には十分でした。かなり高いです。
タオル1枚とかを記念程度に買いたいならば、ほとんどのお土産屋さんに、小物のリネンは置いてあります。

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( 市内中心部のバスクリネン店。専門店が数店ある )
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( 大聖堂が顔を出すバスクムードあふれるショッピング街 )

お菓子屋さんでは、ガトーバスクを見るだけ。近くのアイスクリーム屋さんでは、久しぶりにフランスのアイスを食べました。

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( 市内中心部のお菓子屋さんの例。何店もある )

普通の観光みやげ店にも入ります。バイヨンヌのマグカップとかマグネットとかも買いたいです。
中国製もあるので、じっくり見まわしますが、お店の主人曰く、
「デザインはこっちで指示しているから問題ない」
そういう問題ではないのですが。

土産店は、看板の文字こそバスク風を出していますが、建物とか店内の陳列とかはフランス式です。バスクムードは観光用と、割り切っている感じです。

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( 大聖堂近くのバスク風看板の土産店 )


5) チョコはやっぱりバイヨンヌ

歩いているうちに、お腹もこなれてきたので、本命のチョレートの老舗、カズナーブ:Caznave を探して入ります。店舗も奥のサロンも営業時間は、午後7時までです。スペイン流の時間感覚では考えられません。頭をフランス流に切り替えないと、ドアを閉ざされてしまいます。
カズナーブが店を構えるポールヌフ通り:Rue Port Nuef は、チョコレートの名門店がアーケードの両側に散在しています。カズナーブの隣りがダラナッツ:Daranatz、はす向かいにラトリエ・デュ・ショコラなどなど。
ここには、ブティックや宝飾店もあり、バイヨンヌのクラシックな目抜き通りのひとつです。

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( カズナーブ:Caznave。 奥の赤茶色の看板がダラナッツ  )


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( ダラナッツ:Daranatz。 突き当たりは、川の合流点付近 )

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( ラトリエ・デュ・ショコラ:L'Atelier du Chocolat   カズナーブはす向かい)

この中で、もっとも知名度のあるカズナーブに入ります。道沿いがカフェ、続いてチョコレート販売ブース、一番奥がサロン・デュ・テ:Salon du The* という喫茶部です。

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( カズナーブ店前の歩道上のカフェの様子。多分、奥と同じサービス )

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( カズナーブのサロン・デュ・テ室内。観光客がほとんど )

喫茶部の売れ筋のショコラとトーストのセットを注文し、絵に書いたような観光客ぶりを発揮します。お店側も分かっているみたいで、「はい、了解」と、笑顔で対応してくれます。午後5時前ですが、観光客がほとんど。みんな、どんなものが来るやら、という表情で行儀よく待っています。格式高い”サロン・デュ・テ”ならではの光景です。
ショコラは、いわゆるココアですので、甘いです。トーストは普通です。話のネタには、とてもよい体験です。
最後に、各種チョコレートを買って帰ります。チョコレートの包装裏面は、創業の地バスクに敬意を表して、第一言語は、”Baiona Caznave, Eskuz Eginiko Txocolatea ”とウスケラ (バスク語)表記です。

201709カズナーブチョコ 裏面
( カズナーブの板チョコ。裏面の商品説明 )

これで、バイヨンヌに来た甲斐がありました。

「おっと、まだ、サントマリー大聖堂:Cathe*drale Sainte-Marie見物を忘れてませんか」
「では、さっき行ってきたので、ちょっと披露。立派な建物ですが、もう教会、見飽きました」

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( 大聖堂正面。入口は向かって左手奥です )

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( 大聖堂の内陣。とても立派なゴシック様式です )

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( 中庭:Cloi*tre。美しい造りです )

せっかくですので、堂々たる構えの市役所と、水面を渡る風にフランスを感じてしまうバイヨンヌの母なる川アドゥール川風景も見ておきましょう。

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( バイヨンヌ市役所:Ho*tel de Ville,  Bayonne 。ポールヌフ通りから川沿いに出た場所にあります )

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( アドゥール川と夕陽に染まるバイヨンヌ旧市街の対岸。左の少し高い塔がSNCFバイヨンヌ駅舎)

フランスの豊かな中規模都市の良さを体現しているような場所です。食べ物が、とても口に合うのが何よりです。
バイヨンヌは、専門家でもない限り、1日居れば、観光スポットとお買い物が十分楽しめる場所です。言葉もフランス語ですが、ご先祖様に敬意を表してウスケラが、主要案内に併記してあります。スペイン側のように二言語地域ではないので、あれこれ瞑想にふけることもありません。

地理上の理屈では、バイヨンヌとスペインの日の出、日没は10分と変わらないはずなのに、9月の午後8時を過ぎると、空も暗くなり、目抜き通りから人通りが急速に途絶えます。ドノスティアあたりだと、さあこれから、という時間帯に、こちらでは、観光客向けのレストラン、カフェを除けば、静寂が街角に広がり始めます。

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( 夕暮れのバイヨンヌ。ニーブ川から大聖堂の尖塔を見る )

”静かに眠れバイヨンヌ”

                                                           Jan2018 了

* 印:アクサン記号がつく文字









辛口のサンセバスチャン

辛口のサンセバスチャン

今は昔、これほどたくさんの日本人が、サンセバスチャンにやってきてレストランやピンチョスバルを楽しむことなど、予想だにできませんでした。

私は今回の旅にあたり、老若男女、プロ、アマを問わず、いろいろな人たちによって書かれたサンセバスチャン旅行記やブログ、雑誌などを読みました。

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(  陽光に輝くコンチャ湾  Donostia/San Sebastian  )


美しいコンチャ湾の海岸風景、星付きレストランのバスク料理、そして、時には人混みをかき分けながらめぐったピンチョスバルの、ほっぺが落ちそうなくらい美味しかった小皿料理やチャコリ。旅する人々は、異口同音に、美しい眺めと美味しい食べ物を絶賛します。ドノスティア(サンセバスチャン)市当局にとって、これ以上、望むものはないのではないかと思えるくらいの内容です。

けれども、私は皆さまの素敵な体験談を読むうちに、少し悲しくなってきたのです。

もちろん、一人ひとりの忘れ得ぬサンセバスチャンの思い出に、水を差す気はこれっぽっちもありません。また、高級リゾート地ドノスティアに、観光客を呼び込み、発展を促すための関係者のアイデアや努力に異議を唱える気持ちも皆無です。

ただ、思ったのです。

「ここの旅行記や記事って、誰が書いていても、みんな同じだよね」
「と、いいますと?」
「美しい風景描写と美食レストランや絶品ピンチョスバルの説明に終始していますね」
「だって、そのとおりでしょ」
「屁理屈みたいですが、それが、本当に、サンセバスチャンの真の魅力なのでしょうか?」
「つまり、なに?」

私は、コンチャ海水浴場の景色は、バスクの誇りと文化を感じてもらうためのきっかけみたいなもの、ピンチョスバルの美味しい小皿や地酒は、”そで触れ合うも他生の縁”、という、ご当地のバル文化の温かみを肌で味わってもらうための撒き餌みたいなものの気がしています。

「あんまり難しいことを考えなくていいんじゃない。旅行に来て、きれいな景色見て、うまいもの食って帰るのが一番!」

このような、大勢の方のお気持ちを十分、分かったつもりでの私自身の気持ちです。

ささくれだった心が和らぎ、いつまでも愛する人に抱かれていたいような気分になるのがドノスティアの魅力、ということはないのでしょうか。にわか友達の旅人といっしょにピンチョスを口にするとき、一期一会の縁に深く感謝する気持ちでいっぱいになることはないのでしょうか。

サンセバスチャン物語では、美しいコンチャ湾に感嘆し、有名レストランや評判のピンチョスを、効率良く、あるいは細大もらさず食べ歩くことに夢中になっています。他のパターンの展開は皆無です。
他のすべてを忘れさせるくらい、サンセバスチャンの美食体験は、強烈ということかも知れません。けれども、それでは、ドノスティアやスペインバルの魅力の半分だけを見ているに過ぎないような気がします。

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( 夜のとばりが迫るドノスティア旧市街のバル街 )

バルでは、カップル、あるいはグループの方々の顔ばかり見ていないで、よそのお客とチラッと視線を合わしてみてはいかがでしょう。ふと、目が合ってほほ笑んだことがきっかけとなり、二言三言、あるいは、それ以上、自然の成り行きとして言葉を交わせるバルの気の置けない雰囲気に、もっと気持ちが傾かないのでしょうか。もう、二度と会わないかも知れない30分だけのピンチョスバル友達に、「アグル=またね」と言って別れた余韻にひたることはないのでしょうか。お互い、サンセバスチャンへたどり着くまでに長い道のりがあったはずです。遥か彼方からやってきたニッポン人に、イギリス人もバスク人も、きっと興味をそそられるでしょう。

私の妻も、スペインのバルで、隣のテーブルに座っていたおじさんと私たちの目が合ったのが運の尽きでした。珍しい顔つきのガイジンと話がしたくて、うずうずしていた好々爺のおじさんに、ワインの一杯をおごってもらうわけでもなく、スペイン語で延々とニッポン礼賛論やアメリカ旅行談を聞かされたことを、印象深過ぎるスペインの良き思い出として語っています。

ボルダ・ベリ、ゴイス・アルギ、ガンダリアスなどに代表される有名ピンチョスバルめぐり記は、残念ながら、もう旬ではないと思います。その陰としての、隠れ家バル探訪記も同様でしょう。一皿の料理や、一杯の飲物を通して、旅行者のひとりひとりが、バルで何を感じ、何を思ったかを語ることが、とても大切な気がします。

なぜなら、ピンチョスバルの数には限りがありますが、旅行者の感動体験の数に限りはないからです。

たとえば、同じ飲み屋でも、スペインバルと、イギリスのパブでは、明らかに雰囲気が違います。楽しむポイントも違うと思います。注文の品と引き換えにお会計をするイギリスパブと、大混雑でも後会計をまもるピンチョスバルに、旅の者が感じることは同じなのでしょうか。そんなテーマでの異文化体験も読んでみたいのが、私一人だけというのは、とてもつらいです。

Free picture of UK PUB2018
( イギリスのパブ:フリー画像より引用 )

多種多様なドノスティアの魅力、サンセバスチャンでの感動が広まることを願いつつ。


             2017/9訪問           了  2018年1月



バスク時刻表 2017MEMO

その2 バスク時刻表メモ  2017年12月現在


2017年冬ダイヤを個人用にメモしたバスク時刻表です。電車とバスでバスクを移動するための情報です。
最後には現地で確認が必要ですが、おおまかなイメージづくりには、まだ、有用です。

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(ウスコトレン:Euskotren  サンセバスチャン/ドノスティア アマラ駅の電車 )

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( フランス国鉄:SNCF のTERアキテーヌ快速、普通用電車 )


ビルバオ空港、ドノスティア(サンセバスチャン)、ビアリッツ、バイヨンヌ付近の移動用時刻表メモ。新年に少し追記しました。
スキャン_20180112 (3)

スキャン_20180112 (4)

バスク一帯の時刻表探しは、意外と大変です。

                                          2017/9--2018/1   了



リッチで繊細なドノスティア

リッチで繊細なドノスティア    2017年9月


1) はるか彼方のサンセバスチャン

バスク旅行をする日本人観光客の人気ナンバーワンは、おそらくドノスティア: Donostia でしょう。スペイン語で、サンセバスチャン: San Sebastian と呼ぶ高級リゾート都市です。バスク地方の主要都市のなかでは、もっともウスケラ ( Euskera /  Euskara  / バスク語)が、聞こえる場所だという評判です。

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( ドノスティアが、言語にかかわらず正式名称。サンセバスチャンは、当局の表示には書いていないことが多い。 左や上がウスケラ、右や下がカステヤーノ=スペイン語 )

ビルバオ派の私にとっては、少し残念ですが、多くの日本人が、バスク旅行の結果、ドノスティアに惹かれるのも納得します。何しろ、もともと高級リゾート都市として発展してきた街ですから、観光客に好かれて当然です。
「人気のドノスティア、経済力のビルバオ」、でしょう。

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( Donostia中心部遠望。手前旧市街、ビル街が新市街 Sep.2017 )

私のドノスティア感を一言で表すと、”フランス風”です。

バスク一帯は、もともと独特の雰囲気を持っています。その中でも、ビルバオとドノスティアの雰囲気は違います。普通の観光客でも、半日居れば分かるくらい違います。私の頭の中で、ドノスティアをイメージするキーワードは、リゾート、ハイセンス、ビーチ、物価高、フランス領事館などです。

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(   コンチャ海水浴場とイゲルドの丘。Donostia / サンセバスチャン )

私のドノスティア事始めは、ここのフランス領事館に入国ビザを取りに行った1986年9月です。

当時、フランス国内で頻発したテロ対策のため、フランス政府は突如、EU以外の国籍の旅行者にビザ取得を義務付ました。翌朝、それを知らずにビルバオ発の直通バスでフランスに行こうとしていた私は、国境のアンダイで検問に引っ掛かり、ビザ取りのためにサンセバスチャンに引き返しました。街並み観光をするどころではありません。それでも、「高級マンションが整然と立ち並ぶ上品な場所だなあ」と、マリア・クリスティーナ橋付近の景色を見ながら感じたことを、今でも記憶しています。ビルバオと違い、30年以上経っても、街のみやびな雰囲気は同じです。
ビザ発給の待ち時間に近所のバルに入りましたが、ピンチョスブームの気配もない時世でした。

スペイン語名サンセバスチャンのことをウスケラ:Euskera/Euskara、つまりバスク語でドノスティアと呼ぶことを知っている日本人など、当時は皆無。今でも多くはありません。その後の約20年間で、初めてドノスティアという呼称を知っている方にお会いしましたが、聞けば、親御さんのご縁でドノスティアに泊まったことがある方でした。

鼻持ちならない閑話休題ですが、さすがに、そのお方もバスク語の現地呼称がウスケラとか、(エ)ウスカラというのは、記憶にないようでした。21世紀初頭の、日本人観光客のバスク意識の一端を垣間見るようです。

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( 市内案内表記。ウスケラとカステヤーノ。Donostia Sep.2017 )

ですから、昨今のバスク人気上昇を知るにつれ、良かったねという気持ちになるのです。


2) 風雅で繊細なドノスティア

2017年のドノスティア、スペイン語名サンセバスチャンは、きらきら輝く精巧なガラス細工のような都市でした。街中の雰囲気は、フランスのバスク地方と共通する部分がたくさんありました。ひょうひょうとして、取り澄ましているけれども親切、という雰囲気です。

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( モンテ・ウルグルの頂上から望むコンチャ海水浴場 )

都市の歴史や、コンチャ海水浴場に代表される観光名所の詳細は、多くの方々が語るとおりです。三ツ星レストランやピンチョスバルのレベルの高さで食通をうならせる美食都市ぶりも、万人の褒めているとおりだと思います。
未体験者にとって、サンセバスチャンやビルバオは、想像を絶する整然とした高級感を持つ”スペイン”です。「ちょっと”地方都市”めぐりをするか」という、上から目線感覚が、木っ端みじんに打ち砕かれると言っても過言ではありません。ですから、旅行記では、単調な紹介文を書くだけで、気持ちがいっぱいです。

私は、そういう輝きの奥に、バスク州ならではの複雑な思いが、街路の標識や、お店の看板に込められているような気がしています。
サンセバスチャンというブランドで、街のイメージと経済のいくばくかを支える誇り高きドノスティアが、いつまでも人々の記憶に残ることを祈ってやみません。


3) リッチなドノスティアを歩いて

9月のドノスティアは、頬に当たる空気もだいぶ涼しくなってきていました。青々としたコンチャ湾:Bahi*a Concha / Kontxa baieの色も、高度を下げた太陽の光のせいか、真夏にくらべると、少しばかり黒い濃さを増しています。浜辺で日光浴をしたり、海の中に入っていく人は、めっきりと減り、みんな海岸沿いの遊歩道を行ったり来たりするようになっています。

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( 海水浴客もほとんどいなくなった初秋のコンチャ海水浴場 )

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( カンタブリアの海の色は、濃さを増しつつ )

多くの方々のドノスティアに対するイメージは、ほぼ新市街地の印象です。
テラスが出窓になったバスク風高級マンション街の雰囲気に、私たちは、一目ぼれのような衝撃を受けます。高さやデザインがほぼ揃った、均整の取れた美しい市街地が延々と続きます。歩道の敷石の欠けとか、修理途中で放置されているような建物も、まず、見当たりません。全然、荒れた感じがしないことも、好印象の理由です。
「こりゃ、すごい高級なところへ来たな」
と、ほとんどの人が感じます。


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( ドノスティア (サンセバスチャン) の大聖堂と、付近の高級マンション )

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( 新市街の中心部は、整然とした高級マンション街 )

物価も相当高く、お隣のフランスより少し安いくらいでしかありません。
「どうりで、ホテルが高いと思った」
そのとおりです。9月になったというのに、1泊100ユーロくらい出しても、清潔で便利ですが手狭な部屋しか取れません。

欄干や両岸の彫刻が目を見張るばかりのマリア・クリスティーナ橋や、同名のホテルを眺めるにつけ、
「ここは、金がかかる街だ」、ということに、あらためて納得します。

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( 美術品のようなマリア・クリスティーナ橋。RENFEの駅の近く )

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( 川沿いのホテル・マリア・クリスティーナと背後のウルグルの丘 )

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( ドノスティア市庁舎。旧市街と新市街の境目付近のビーチ寄りにある )
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( 安心度100%。観光ムード満点の旧市街の通り。ドノスティア )

大半の観光客は、1泊2日だろうが、1週間滞在型であろうが、ピンチョスバルめぐりを楽しみます。
私も体験者として思います。

「バルは楽しむものです。スマホにランキングデータを入れておいて、食べた、行った、とチェックしながら回る場所ではありません」

「そうは言っても、ダンナあ。一生に一回、来れるか来れないかなんだからさあ。名物ピンチョスが30ユーロでもいいんだよ」

それも、ひとつの見識として承りました。

「でも、バルが楽しかったんではないですよね。バルに行ったこと自体が、楽しかったんですよね」

「細かいことに、いちいち、うるさいなあ!」

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( ランチタイム前の旧市街のピンチョスバル街 )

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( 大にぎわいの、夜のピンチョスバル街 )

私も、ドノスティアでは、典型的な1泊観光客です。観光案内を見ながら、市内めぐりとピンチョスバル体験をしました。とても、すがすがしい午後の時間と、後悔も含めて、エキサイティングな週末ピンチョスバル体験をすることができ、大変、満足しています。
「一期一会のオーストラリア人のお姉さん、ありがとうございました」、です。

わずかな体験から感じたことは、ドノスティアは、サンセバスチャンという食通ブランドを世界にアピールしながら成長している観光都市だということです。自然環境良し、治安良し、都市づくり良し、食べ物良しの魅力的な街です。何人もの日本人や外国人が、お母さんの胸に抱かれるような、安らかで清らかな気分に惹かれて、ここに移ってきた理由が、よく分かります。

お仕事に恵まれて、この地で憂いなく眠れますよう、祈念してやみません。

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ビルバオの日常グルメ

ビルバオかいわいで、いいなと思ったバルやレストランなどの記憶です。美味しいバスクの、ほんの一例です。
バスクでのガストロノミー、つまり食べ歩きは、ゆっくり、いろいろ、あちこちで、です。

1) 伝統のカフェでくつろぐ

私も、たまには有名店へ入りたいです。
アバンド地区のアルビア庭園南側の通りにそって数軒のバルが並んでいます。もっとも格式が高いのがカフェイルーニャ:Cafe Irun*a です。1903年創業で、現存するビルバオ市内最古のカフェです。名前の ”イルーニャ”は、ウスケラでパンプローナのことです。
店構えも堂々としていますが、店内はアラビア調の装飾でいっぱい。けばけばしい、と感じる日本人もいるのではないかと思うくらいの室内です。古き良きヨーロッパが、ここにも残っていました。

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( Cafe Irun*a の店構え。 アバンド )
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( カフェ・イルーニャの装飾天井 )

名前は”カフェ”ですが、営業実態は”バル”兼用です。旅行者体験談を拝読しますと、羊の串焼きがおすすめのようですが、食べ忘れました。次の機会が楽しみです。


2)  記念日は展望レストランで

ビルバオ市街を一望できるアルチャンダ公園に行ったときに紹介されたレストランがあります。
”チャコリ”:Restaurante Txakoli、という名前のお店で、アルチャンダケーブル山頂駅から東にちょっと歩いた場所にあります。

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( アルチャンダの丘の上レストラン、チャコリ:Txakoli 外観。反対側がビルバオ展望面 )

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( ビルバオ市街を眺めながらのお食事もいいですね )

店内のインテリアがバスク風レトロで風情があります。テラス席、窓際席からビルバオ都心部が一望できる立地がおすすめです。観光客ならば、夜景が楽しめる夕食も一興です。市民の皆さんは、結婚披露宴や、子供のお誕生日会などで昼間の利用が多いとのこと。お値段は、風景料込みのレベルです。


3) お気軽にピンチョスバル

ビルバオで、観光客に人気があるピンチョスバルは、カスコ・ビエホのプラサ・ヌエバ周辺と、アバンド地区のアルビア庭園からウルキホ通り付近に集中しています。それに異存はありません。実際に美味しいと思います。

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( Plaza Nueva のバル風景。人の少ない朝食時からも数軒が営業中 )

けれども、カフェやバルは、ビルバオ中、バスク中に点在しています。観光ガイドをチェックしないでバルに入ってみることも大切です。

地域の人たちには、けっこうモダンなインテリアのバルが人気です。こういうところは、日本に来るガイジン客は、盆栽が置かれた抹茶カフェがいいなと思っているのに、当の市民たちは、スタバ、とか、エクセルシオールカフェに行きたがるのと、おんなじ心理なのかも知れません。

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( 地元密着型のバルが並ぶインダウチュかいわいの通り )


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( 近隣住民でにぎわうバル。夜遅くなるとピンチョスも値引き )

みんなそれぞれ、馴染みのバルが数軒ずつあるので、友達どうしで、双方のバルを訪ねあって楽しんでいます。今はケータイ電話という便利な機器があるので、昔のように「あいつは、あのバルにいるかな」と、自分で足を運びながら尋ね人を探し回ることはなくなりました。

地域密着タイプのバルでは、あまり凝ったピンチョスはありません。おいしい食事は、自分の家で料理すればよいのです。バルの方でも、意識しないで手を出せるような品揃えを狙ってメニューをしぼり、安くお手軽に毎日でも来てもらう工夫をしているようです。
私も二日と開けず行ったら、店員さんから、「また、来たね」というような笑顔をされました。バルの別の楽しい一面です。


4) レトロ調B級外食バル

ビスカヤ橋右岸の高級住宅都市ゲチョ:Getxo の市内の観光ポイントまで、足を伸ばす遠方からの観光客はほとんどいません。

ゲチョの食べ物屋に入るのは、ゲチョ市民かビルバオ一帯の人たちが大半です。だから、ゲチョで食べ歩きをすると、本当にビルバオとかビスカヤにはまり込んだ気分になれます。

ゲチョは、当地の製鉄業や造船業が勃興するまでは、小さな漁村でした。それをネタにして、昔の小さな埠頭のそばに漁師風酒場と料理店が軒を連ねています。
ポルトゥ・サーラ:Portu Zaharra ( ポルトサーラ )という場所です。意味は、古い港、です。同音のバル”ポルトゥ・サーラ:Portu Zaharra” もあります。店の壁には、昔の漁村風景画などが掛かっています。こういう発想は、世界共通です。安心して、プチ観光客としてビスカヤムードにひたりましょう。

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( バルのPortu Zaharra, Getxo  )

このあたりのお客は、もっぱら週末にふらふらするビルバオ一帯の人たち。曲がりくねった坂道は、夕方になると、海辺の村ムードを楽しむ、そぞろ歩きの人でにぎわいます。お洒落なアクセサリー店もあり、観光地気分を盛り上げています。

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( ポルトゥサーラ地区の坂道には、お洒落なお店やバルが並ぶ。Getxo )


5) デートで行きたいアイセロータ

ゲチョの高台を北西に進んで行くと、ネルビオン川の河口と新ビルバオ港を見渡せるアイセロータ展望公園:Aixerrota /  Mirador Aixerrota に着きます。アイセロータは、ウスケラで”風車”の意味。地名のとおり、1基だけ昔ながらの風車が保存されいます。まわりは芝生で、気持ちのよい空間です。

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( アイセロータ公園と保存風車。後方はゲチョ住宅街 )


この保存風車に併設しているのが、かなり高級なレストラン”クビータ:Cubita”です。地元では、”アイセロータのレストラン”で分かるようです。窓際の席から港や湾が遠目に一望できる造りです。明かりがともる港町の夜景は、どこでも絵になります。お値段は張りますが、カップルの記念日や大切なデートのときに、おすすめの場所です。(コロナで閉店)

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( アイセロータの高級レストラン、クビータ:Cubita )


6) Getxoのハイソなガーデンレストラン

ゲチョ市は、高級住宅都市ですので、ちょっとしたレストランは、たいていハイソな雰囲気を漂わしています。駅やバス停から10分くらい歩けば着けるお店も何軒かあるので、是非、スペイン風ママ友ランチ気分、お客を連れて行く気取ったビジネスランチ気分に浸りましょう。

しつこく言いますが、ビルバオもスペインですので、ランチは午後2時か3時から、ディナーは9時、10時からスタートです。1日の食事の中心は昼食です。

その中で、絶対、若い女性の支持を得そうなのが、お庭がきれいで、建物が少しレトロ調のガーデンレストラン、ヨラストキ:Jolastoki 。ウスケラで、意味は”娯楽場所”だそうです。
入口は、邸宅風です。庭園席が充実していて、メルヘンチックな小規模ウェディングパーティなどにぴったりの作りです。
(コロナで閉店)

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( レストランテ・ヨラストキの入口。 ゲチョ )

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(  Jolastoki の庭園席 )

室内インテリアもシックです。お味は平均を軽く突破、お値段はやや高めです。けれども、バスクのしっとりとした豊かさを120%体験できる食事タイムとなるでしょう。

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( Jolastoki のバル。ガラス戸の奥が、室内席 )


7) バスク大学の学食

私も未体験です。美食で名高いバスクの大学生って、いったいどんなもの食べているんでしょう。興味津々です。
誰か、入ってくださあーーい!

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( UPV、バスク大学本部キャンパス、学食生協付近の広場 )



 2017/9訪問、2018/1記      了






私の美味しいバスク

私の美味しいバスク  2017年9月

1) ずうっと美味しいバスク料理

ビルバオやバスクの食べ物は、昔も今もとても美味しいです。

スペイン国内でも、ピンチョスバルや、三ツ星レストランが脚光を浴びる前から、バスク料理は美味しいと言われてきました。
1986年刊行の「Descubre Espana Paso a Paso, Pais Vasco Ⅱ」** では、「ビスカヤ一帯の料理は、スペインでは最高です」と、いう書き出しで、郷土料理の紹介を始めています。ただし、ピンチョスのことなど、これっぽっちも触れていません。まだ、そういう時代ではなかったのです。

私も、1986年に、友人宅でバスク風のご飯を食べたときから、バスク料理は、日本人にも馴染む味だと思いました。数年後に、同じ体験をした妻も「あそこのお母さんが作ったご飯は、とても美味しかった」と、しみじみ言っています。

この本によると、特筆するべき料理は、「豊富なタラ料理、新鮮なイワシ類などなど」です。

豊富なタラと最強の料理 出典Pais VascoⅡ
 ( 豊富なタラ料理、で始まる1986年頃のバスク郷土料理紹介)

バスク一帯でも、スペイン流バル文化は日常生活の一コマです。バスク観光案内で、わざわざ書くようなテーマではありません。強いて言えば、という感じで、ナプキンが床に散らかっていることや、インテリアが重厚な木組みであることを強調した、「ビスカヤ風の飲み屋」の写真が1枚載っています。

これは、例えば、「関東の居酒屋では、立ち飲み席があるのが一般的」と、ご当地風を、ちょっぴり誇張気味に紹介しているレベルと変わりません。


2) バスク大出世

1997年9月にトラベルジャーナル社より出版された「ヨーロッパ・カルチャーガイド、スペイン」***でも、バスクの話題は2つだけです。1992年8月のバルセロナ・オリンピックによるスペイン・ブームの余韻が残っている頃です。

一つ目は、ETA情勢で、4ページを使って紹介しています。

二つ目が、「スペイン各地方の名物料理を総ざらい」、という料理研究家のコラムです。1ページを割いて、バスク料理数点を紹介しています。コラムの初めの方に、総論として、「スペイン国内では、バスク料理はおいしいことで評判」 という旨が書いてあります。

1997930TジャーナルEカルチャーガイド


2017年の価値基準で評価すると、そもそも、バスクの話題で、バルや三ツ星レストランのことより、ETAの方がニュース性があるなんて、信じられません。

今日では当たり前のような、「世界でいちばん美味しい都市、サン・セバスチャン!」のような言い方と比べると、かなり自信がなさそうな文章です。
「本当は、パエリアが美味しいと思うんだけど、スペイン人たちは、”いや、バスク料理の方が美味しい”って、言っています」、みたいな気持ちが、出ています。

「あんた、実際、バスクに行って食べたことないでしょ」
「あっー、まあ、1回くらいあるかな。マドリードにもバスク料理店あるし・・・・」

2017年4月に出た「CREA Due Traveler」****という旅行雑誌では、バスク料理は大出世。食を中心としたバスク紹介記事に、全162ページのうち48ページを割いています。日本人にとっては、マドリード、バルセロナ、アンダルシアと並ぶ4大スペイン観光地です、とPRしている注目ぶりです。

201704文藝春秋CREA4月号
 (文藝春秋 CREA Due Traveler、2017年4月臨時増刊号 )
201704CREA4月号目次
( 同、CREA Due Travelerの目次)

三ツ星レストランやピンチョスバルの紹介は言わずもがなです。食を切り口に据えて、海沿いの奇勝、内陸の山村などの全部が全部、世界最高水準、目からうろこのハイ・クォリティとべたほめです。「バスクに足を運ばないなんて、スペインに行ったことにならないよ」、と言いたげです。

ほんの10年前くらいまで、一般的な旅行ガイドにおけるバスク案内のページ数はゼロでした。
21世紀の声を聞く前から、バスク近辺に移り住んだ日本人の方も感慨もひとしおだと思います。

「世界中に散らばる日本人観光客でも、見落とした場所があったんだあ」
「うん、うん」
「苦しいときもあったけれど、やっと、バスクの良さが分かってきたんだね」
「うん、うん」
と、私も涙ぐむだけです。

バスク料理の大躍進物語や、お店情報などについては、多くの方が解説されています。そのとおりです。

私は大金持ちでないし、グルメツアー客でもありませんので、バスクで星のついたレストランは未体験です。けれども、普通に入っているレストランやバルも、十中八九、十分に美味しいです。ほとんど、はずれ、がありません。これは、バスクならではの食体験だと思います。

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( 夕暮れのドノスティア。ピンチョスバルのひしめく通り )

また、バスク料理とピンチョス人気が急上昇中と言っても、観光ガイドで絶賛されるお店は、全体の一部です。観光地としての知名度が低い場所に行っても、美味しいレストランや、心地よいバルとの出会いがあると思います。

3) きびしい食文化づくり

バスク料理ブームや観光ブームの影響を受けて、食や絶景感を柱に据えて町おこしを狙っている地域は少なくないようですが、心して聞いてほしいことがあります。

自分たち自身で、「ご当地は、景色はきれい、食べ物は美味しく、人情は厚い。どうして人が来ないんだろう」と、思っているようでは、絶対に評判の観光地にはなれません。それが日本一だと、辛口批評家も認めるレベルまで、地域全体の生活文化を高める努力が必要です。そもそも、バスク州は、マドリード、ナバーラ、カタルーニャと並び、スペインで一番、個人所得が高い地域になっています。

バスクの日常生活は、日本人の想像以上に豊かです。手始めに、バスクの人々と同じように全員が1カ月の休暇を順番に取って、バスク体験旅行に行ってみてはいかがでしょう。バスク方式の町おこしが、とてつもなく挑戦的であることを実感できます。
湘南とか金沢みたいに、国内でもともと定評のあった地域や都市が、食文化や都市景観などに、さらに磨きをかけ、世界のショーナン、世界のカナザワになった感じなのです。


4) 私だけの三つ星

私だけの三つ星バスク料理は、有名レストランの味ではありません。友人、知人と囲む和やかな家庭料理の味です。あるいは、旅先で知り合った人たちと食べたレストランの味や、ピンチョスバルの一品です。

月並みですが、異文化体験の中で味わう、家庭の味や日常生活の食事は、それだけで星二つ分くらいの価値があります。その料理が美味しかった場合には、即座に星一つ加算です。

Pジャンジョレスのカフェにて198008 (5)
 ( カフェの夜のイメージ。袖すり合うも他生の縁 )

「深夜特急6」で、著者の沢木耕太郎さんは、ギリシャ人家庭での食体験を事細かに語っています。偶然、地元の見ず知らずの市民の家に招かれ、、一宿一飯の恩義にあずかった話です。言葉もロクに通じない中で、片言の英単語や、身振り手振りで会話しながらの食事場面が、ものすごく印象に残ったようです。ギリシャに対する好印象の決め手と言ってよいかも知れません。だれでも、こういうチャンスはあると思います。
もしかしたら、逆に、私や皆さんの誰かが、もののはずみで「うちで、ご飯食べてくか?」と、誘うことになるかも知れません。天が、ご縁を授けてくれたのです。


5) 私のピンチョスバル体験

いま、バスクの人気ピンチョスバルには、一人で来ている旅行者も少なからずいます。二人連れくらいでも、スペインは初めて、バスクも初めて程度だと、緊張がほぐれません。そういう人と、ちょっと目を合わせて、にっこりするだけでも、30分だけのピンチョスバル友達ができます。
こうしてできたカップルや小グループでピンチョスをほおばるのは、とても思い出に残るひとときです。意気投合して、2、3軒バルをはしごすれば、一生の思い出になるでしょう。
今回は、ドノスティアで、なぜかオーストラリア人と2回もバル友達になりました。顔つきは欧米系ですが、スペイン流、バスク流にはまごつくらしく、激混みバルでついつい目が合った私と、にわかグループを作って飲物と料理を注文しました。

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( 宵の口の人気ピンチョスバル”ガンダリアス”。ドノスティアにて )

しかし、人気ピンチョスバル「ガンダリアス」には、一人で入りました。金曜日の日没後は、「超」の字が三つくらいつくほどの大混雑です。カウンターに行きつくために10分以上、身をよじらせて人混みの中を分け入りましたが、根気が尽きてあえなく敗退です。

いったん、人が少ないバルに行き、英気を養います。こういうところでは、私も何ら問題なく、好きなものを好きなだけ注文できます。

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( 空いているピンチョスバル )

人気のピンチョスバルでも、午前中や明るいうちは、あまり混んでいません。
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( 正午過ぎのバル、Bergara の店内 )

ドノスティアのピンチョスバル発祥店という呼び声が高い人気店のひとつ、ベルガーラ:Bergara というバルは、正午ごろでも、実にのんびりした雰囲気です。いわゆる、10時のおやつ気分で寄ったときの体験です。
店員さんも、「これもどう」とか、余裕の笑顔でお薦めトーク。隣のテーブルに座っていた中年ドイツ人おばさんも、目が合ったとき、「おいしいね」という感じで、にこにこと私に手を振って出ていきました。

私も、この時点では、「混んでいても、何とかなるさ」と、人気店の、のんびりムードを見て思っていました。
それが、とても甘い考えであったことは、先に書いたとおりです。

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(混雑する人気店のピンチョスバル。ドノスティア旧市街 )

そのため、英気を養ったあとの人気ピンチョスバル訪問では、カウンター内の店員さんに、注文が通るまで根気よく手を変え品を変えアピールです。ここで、隣りに押し出されてきたオーストラリア人の女の子二人組といっしょになって店員さんに声をかけます。三人組は、やはり強力でした。いったんリズムに乗ると、状況も好転します。注文した料理を間違えて運んできたので作り直してもらったりと、どこに書いても恥ずかしくないピンチョスバル体験となりました。

ドノスティアのピンチョス街をふらついていると、たまにピンチョスバル・ツアーの一行に出会います。欧米系中心の10人くらいのグループを、若いガイドさんが引率しているイメージです。

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( 個人参加のピンチョスバル・ツアーの様子 )

みんな、飲物と一品料理をほおばりながら、ガイドさんの説明を一生懸命聞いています。でも、人気店では、お店の中へは入りません。ガイドさんに買ってきてもらったものを、飲み終わり、食べ終わると移動です。

実は、私も土地勘のないドノスティアで、こういう個人客ベースのピンチョスバル・ツアーに参加しようかなと思っていました。けれども、ケチな性格が災いして、実際のお会計の倍くらいかかるツアーは断念したのです。「有名店、名物料理のひとつか、ふたつだけでも食べられればいいや」、程度の執着心しかなかったこともあります。

結果として、「ピンチョスバルめぐりは、ツアーに入ってまで行くものでしょうか?」、という気持ちになりました。

食通旅行者の方々の目標が、星付きレストラン体験や、有名バルの名物ピンチョス食べ歩きであることは、よく知っています。バスクに来るまで旅費もかかります。その一方、レストランはともかく、バルはカジュアルな社交の場、息抜きの場です。目標完遂、予算必達のような、会社経営方針や、人事制度の個人目標達成を意識した気分で行くものではないと、私は思っています。

バルは、「ちょっと喉が渇いたから寄る」、「店の雰囲気が好き」、「店のお姉さん、おやじ、の感じがよい」、「知り合いが来てるかも」、という流れで入るもの。肩に力が入っていては、くつろげません。ピンチョスバルは、美食でとても有名ですが、それと並行して、居心地よい雰囲気にひたり、一人でも四人でも楽しいひとときを過ごすことを期待して寄る場所のような気がします。リストを持って、「入った、食べた」、とチェックマークを付けて歩き回るようなバルめぐりでは、会社生活の延長です。旅は楽しくなりません。

「お前は甘い!そんなことしていると、美味しいピンチョスにありつけませんよ!」と、同胞の皆さんから叱られそうです。


6) さらば自家製チャコリ

2017年のいまでも、バスク料理文化は、日々、進化しています。
その中で、消えゆくバスクの美味しい味、なつかしい味もあります。自家製チャコリも、絶滅危惧種となりました。

チャコリ:txakoli 、または txakolina、は、ご当地産の微発泡ワインです。発音のアクセントは「リ」にあり、チャコ「リ」と発音します。
かすかな黄色か黄緑色をしています。どうして微発泡になるかは、専門家の説明を聞くしかありません。

私が初めてビルバオ周辺に行ったとき、チャコリは、ほぼ自家製でした。友人のお父さんが、倉庫からもぞもぞ出してきて、にやりとして、「チャコリ! バスク・シャンパーニュ」と言って、ついでくれたことが鮮明に記憶に残っています。薄味で、お酒に弱い私がコップ3杯くらい飲んでも、ほんのり赤くなるくらいです。ビンも、ワインの空きビン利用でした。
近所の親戚筋に立寄ると、「うちのチャコリだ」と言って、一杯ついでくれます。味が多少違いました。家ごとに味が微妙に違うのは、日本の昔のウメボシ感覚と同じです。
自家製チャコリは、薄いワインでしたが、今、振り返るとコクがありました。素朴な味で、どんより感がしていました。自家製でビン詰めすると密封性が悪いためか、保存が効かなかったようです。「チャコリ持ってけ」とは、ついぞ言われません。
その後、家の中でも、昼のピクニックランチでも、チャコリが必ず出ました。我が妻も、飲んでいます。「あの、家で作ったワインみたいな飲物でしょ」と、覚えています。

自家製TXAKOLI
( 田園のピクニックランチで並んだ自家製チャコリ。青い服の人の前のビン )

「お父さんの自家製チャコリないの?」
「年を取ったし、とっくの昔に、作るのやめた」
「コクがあったのに」
「ありがと、でも今はなくなったの。お店で買えるし」
という感じです。
確かに、当時は、チャコリはお店に置いてありませんでした。だから、よそ者の旅行者はチャコリの「チ」の字も知りません。チャコリは、ワイン代節約のために、自家製で作るものでした。

21世紀のチャコリ人気を見るにつけ、バスクブームなんだあ、と感無量です。そして、専門家が醸造した有名チャコリをお土産にして帰国しました。

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( ビスカヤ県の代表的チャコリ、イツァスメンディ(イチャスメンディ)。14度表示 )

ラベルを見ると、アルコール度数14度です。全然、軽めの地元ワインではないですね。
それから、ビルバオやビスカヤ一帯では、チャコリを高いところから注いでいるのを見たこともありません。
「ああ、あれはギプスコア流だ」の一言で終わり。
何でそんなこと聞くんだ、みたいな顔つきで説明されました。
「・・・・・・・・・」


** Descubre Espana Paso a Paso, Pais Vasco Ⅱ:S.A. de Promocion y Ediciones Club Internacional de Libro 社刊1986年

*** ヨーロッパ・カルチャーガイド、スペイン:1997年9月トラベルジャーナル社刊

****CREA Due Traveler:2017年4月文藝春秋社刊


                                                                   了









ビルバオの歓び その7 of 7 夕暮れに抱かれて


ビルバオの歓び

その7 夕暮れに抱かれて


1) はかない夕暮れ

スペインの良さのひとつは、夕暮れが、はかないほどに美しいことです。

「バスクの夕陽、今日も、ようよう影を伸ばして」 

枕草子さながらの気分で、沈みゆくお日様を眺めるとき、少しだけ、しんみりとしてしまいます。

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( イメージ:夕暮れのカフェ。ドノスティアのコンチャ海岸 )


冬を除けば、普通の人が、仕事を終えて家に帰ってきて、ひと段落したあとでも十分に明るいです。遊歩道を散歩したり、バルのテラスでおしゃべりしながら、暮れゆく街並みや、黒ずんでいく山影を目にできます。空気が日本より乾燥していることが多いので、夕陽のオレンジ色が、いっそうあざやかに感じられるからかも知れません。

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( 9月の午後6時。ゆっくりと陽が傾き始め、バスクの山々は影の色を増す )

のんびり、あるいは、だらだらとした夕暮れ風景は、ヨーロッパの多くの国々の特色です。慣れもあるのでしょうが、私は、そういうペースが好きです。1日1回くらい、お日様の当たる光景にじっくり目を向けて、気分をリフレッシュさせるのが自然体かなと感じます。


2) にやりとするスペイン・タイム

”スペインタイム、スペイン流の時間”、という言い方をヨーロッパでは耳にします。

フランス南西部のダクスとか、ボルドーあたりの観光案内所にスペイン人が立ち寄ると、スタッフが、にやりとしながら
「スペイン人の皆さあーん! フランスでは、ランチは1時からですからね。3時にレストランに行こうとすると、みんな閉まってますからね」 と、言うそうです。

これが、スペインタイムです。
スペイン旅行や、スペイン生活体験者が、異口同音にアピールする、独特な時間感覚です。

スペインは、ヨーロッパ内でも、かなり西の方に位置しています。そのうえ、時間帯の設定がフランス、ドイツあたりの基準といっしょです。日の出が、朝7時から9時すぎ、南中は午後2時前後、日没が午後8時から10時です。朝ご飯は7時、昼ご飯は午後2時、夕ご飯は午後9時ごろが一般的です。

日本人が、数字だけ見ると、「超夜更かしのスペイン人に、ついていけない」と、げんなりしそうです。けれども、太陽が、一番空高く上がるのが、正午ごろではなく、午後2時前後です。日本人感覚より、エイヤッ、で2、3時間後ろ倒しにして考えると、バスク風も含めたスペイン人の生活感覚と一致します。

①午前6時から8時。夜明けとともに起きて仕事や学校に行く。早起きですね。冬は、真っ暗なので辛いです。
②午前10時。早起きなので、小腹減った。バルに行って、おつまみ食おうっと。
③午後2時。お日様が頭の上にきたので、そろそろ昼だ。週末は、遅昼だから、3時スタート!
④午後5時前後。仕事、学校終了。まだ、太陽は高いから、一風呂(シャワー)浴びて、バルに行ってピンチョスつまみながら一杯やろ。
⑤午後9時。暗くなってきたから、家へ帰ってメシ食って、ちょっとおしゃべりして寝るか。
⑥深夜3時。今日は金曜、土曜なので夜更かしだ。おしゃべり、はしご酒。深夜映画みてたら3時だった。

お日様の動きと、けっこう連動している健康的な生活です。その証拠に、スペイン人の平均寿命は、日本人よりちょっと短い81歳くらい。ワイン飲んでお気楽に生きているように見える割には、しっかりと長生きです。


3)スペインに居れば、バルに入れ

ビルバオでも夕方が、ゆったりと過ぎて行きます。

歩くと、気分がリフレッシュしますが、喉もかわくので、バルに入ります。たまには、有名店を目指しました。
ビルバオで現存するカフェの中で、一番古いカフェ・イルーニャ:Cafe Irun*aに行きます。1903年創業、インテリアがアラビア調の凝った作りです。ピンチョスも並んでいますが、カフェなので、ソファや椅子でくつろぐのが基本です。

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( カフェ・イルーニャのあるアルビア庭園の脇のとおり )
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( カフェ・イルーニャ外観 )

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( アラビア調インテリアのカフェ・イルーニャで一休み )

このあたりは、通りにそって数軒のバルやカフェが並んでいます。そのため、夕暮れ時は人通りが増えます。モダンなインテリアのバルは、案の定、若いお姉さん、お兄さんがいっぱい。観光客は、若い人たちのムッとするような力強さに押されて、そういうバルには入りにくそうです。おっとり系のカフェ・イルーニャは、中年、シニア、観光客向けです。

スペインも全国レベルで、バル文化の国です。けれども、”パリのカフェ”のように、あんまり印象的ではありません。近年、ピンチョスバルがあまりにも有名になったので、バルに何種類もあるように感じる場合もありますが、基本的には全部同じ、と私は思います。ちょっと気軽に寄って、小腹を満たし、ほっとした息抜きができれば十分です。お上品なマダムが集う ”おほほ” 感覚の高級ティールームみたいのもあるはずですが、私は良くわかりません。

バルは、繰り返し気軽に来られる場所を目指しているので、必然的に地元密着型のサービスになりがち。旅行者は入りにくいのかも知れません。私も、ときどき「ここに入りずらいな」と、迷います。仕事でパートナーとなったイギリス人も、最初はバルにおっかなびっくり入っていましたから、顔かたちとバルの慣れは、あまり関係ないと感じています。
けれども、2、3度入っているうちに慣れるので、大丈夫。旅行記で、「疲れたので、ちょっとバルに入りました。呼吸を整えて、また、街歩きスタート」と、さりげなく書いていたら、もうスペイン流を会得しつつある証拠です。思う存分楽しい旅を満喫しましょう。
裏を返せば、旅のテーマから離れて、「バルで飲んだXXがグー、とか、ピンチョス並んでいて、迷って選んで二つ食べた」と、熱心に紹介しているうちは、スペイン修行が足りないということです。

そういえば、ビルバオって、マクドナルドとかスタバが都心部にあったっけ?です。どなたかご存知でしょうか。


4) 残照を見つめて

9月の午後8時半、カフェを出てやってきたモユア広場にも、明かりがともっています。曇りがちで雨模様でしたが、雲が切れて青空がのぞいてきました。西に沈みかける太陽の光に照らされたオレンジ色の小さな雲が、ひとつ、ふたつと目に入ります。


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( 日没前のモユア広場。正面チャベリ宮のビル )

ビルバオは、今のところ、装飾的なライトアップはほとんどありません。それでも、グッゲンハイムやネルビオン川沿いに明かりがともると、静かな美しさが胸に響いてきます。これが、ご当地の真髄なのかも知れません。あしたも、今日とおなじように、ゆったりとして胸にひびく一日でありますように。

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ビルバオの歓び その6 追憶のカスコビエホ

ビルバオの歓び

その6  追憶のカスコビエホ


ヨーロッパに旅行すると、何となく旧市街へ足が向きます。ほとんどの都市で歴史が売り物なので、観光の目玉が旧市街に偏っているからです。

ビルバオは、そういう原理原則からはずれている少数派の都市だと思います。
繰り返しコメントしますように、ビルバオの魅力は、”新たな息吹き”です。アートで都市を再生するという発想が見事に花開いているのを肌で感じることが、ここの魅力だと感じます。

それでも、旧市街へ行ってみたくなるのは、歴史のある都市へ行く以上、どうしても断ち切れない誘惑でしょう。ビルバオ市も、グッゲンハイム美術館を誘致する一方、旧市街が人気ピンチョスバルのメッカになっていることを紹介しています。

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( アバンド駅前の観光案内所前からアーレナル橋へ下る坂道 )

ビルバオの新市街と旧市街は、ネルビオン川で、はっきりと隔てられています。

アバンド駅前の観光案内所から旧市街を目指します。大通りの緩やかな坂を下ると、すぐにアーレナル橋(アレナル橋) :Puente del Arenal  を渡ります。
アバンド方向から見て、橋の右前方に見えるのは、1893年竣工で、パリのオペラ座風のアリアーガ劇場です。その背後が、ビルバオの旧市街です。ウスケラで、サスピカレアク:Zazpikaleak 、スペイン語でカスコビエホ:Casco Viejo と呼んでいます。意味は、前者が”七つの道”、つまり”七道=しちどう”、後者が、”旧市街”です。

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( 左からアリアーガ劇場、アーレナル橋、BBVAタワー )

アーレナル橋は、観光客にとって目印とするために便利な場所です。今では、きれいに整備され、トランヴィアの線路も敷かれました。
橋のアバンド側には、緑色の壁とアーチ型の屋根がかわいらしい建物が目立ちます。フェーベ:FEVE、と呼ぶスペイン狭軌鉄道会社の始発駅コンコルディア駅舎です。
このあたりは、建物こそ、ほとんど同じですが、ビルバオ再生に伴い、壁の煤払いをしたり、ごちゃごちゃしていた川岸の小屋などを整理したようです。疲れ果てて家に帰ってきて、一風呂浴びてさっぱりしたような雰囲気です。

( アーレナル橋。上2017年、下1986年 )
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198609ビルバオコンコルディア橋付近

( アーレナル橋から南側の眺望。上2017年、下1986年 )
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198609ビルバオコンコルディア駅付近とネルビオン川 (2)

古い写真を見ると分かりますように、アリアーガ劇場の裏手は、かつてバスターミナルで、かなり手狭でした。私が初めてビルバオの第一歩を踏みしめた場所も、このバスターミナルです。売店用の小屋や、さまざまなポスターがべたべたと貼ってありました。ビルの壁も、ばい煙で黒ずんでいました。重工業都市ビルバオのすさまじさを実感した場所です。

それでも、街の雰囲気は落ち着いていました。バスの到着客にまとわりつくような物売り、タクシー運転手もいませんし、通行人は静かに行き来していました。今も変わらない、一見、内向的なバスク人気質を、なつかしく思い出しました。

198609ビルバオアリアーガ裏バスタ
(1986年のアリアーガ裏手のバスターミナル)
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(2017年のアリアーガ裏手。すっきりと整備されました)

アリアーガ劇場の陰に隠れたあたりから、旧市街に足を踏み入れます。目指すは、ヌエバ広場:Plaza Nueva、やサンチアゴ大聖堂です。10分か15分くらい、ふらふら歩いていても突っ切ってしまう区域です。

旧市街の目抜き通り、ポスタル通りです。ブティックや宝飾店が並んでいましたが、今は、バルやお土産屋さんも増えました。歩いている人の半分くらいが、明らかに観光客と分かる人たちです。「本当に観光地になったんだ」、と実感します。

Wikipediaか、ビルバオ住まいの日本人の方のブログか、何かで読んだ記憶がありますが、グッゲンハイム効果はすざまじく、ビルバオ市の1990年ごろの年間観光客数2万5000人が、2005年くらいには100万人を突破したそうです。
「そうすると、私は25000人にカウントされていたのだろうか。そのころ、一応、ホテルに泊まったガイジンだぞ」
「多分、外数だと思います」
「えっ!」
「そのころ、ビルバオで、日本人なんて、ほとんど誰もいないから、統計上は”その他不明”くらいだったんじゃないの?」


(ポスタル通り風景、上1986年、下2017年 )
198609Bポスタカレア北向き公園突当り
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続いて、今やピンチョスバルがひしめくヌエバ広場を見ます。午前中に顔を出したので、まだ、がらーんとしています。週末の午後や夜は、イベントやバルめぐりの人たちで、大賑わいだそうです。

(ヌエバ広場。上1986年、下2017年 )
198609ビルバオ旧市街ヌエバ広場
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ビルバオ経済が沈滞していたころの広場は、がらーんとして、あまり生気がありません。今は、旧市街のヘソとしてきれいに整備され、はつらつとしています。ビル壁も、化粧直しされて輝いているようです。
「やっぱり、伸び盛りって、いいなあ」と、つくづく感じます。

カスコ・ビエホの南の中心が、サンチアゴ大聖堂:Cathedral Santiago です。まあ、よくある”古い教会”です。まわりに建物が迫っているので、うまく写真が撮れません。大聖堂へ続く通りにも、テラス窓が張り出し、濃い緑色の窓枠が特徴のビルバオ風マンションが、けっこう立ち並んでいます。

( サンチアゴ大聖堂正面と裏手方向の張り出し )
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大聖堂を過ぎて、細い道を右手方向に歩くと、ネルビオン川の岸辺に行き当たります。川に沿った新しい建物がラ・リベラ市場(いちば):Mercado de la Ribera  という、マーケット兼バルです。けっこう、ここに寄ったという日本人訪問記があるので、びっくりします。市場は、活気があり、バルも威勢がよいので、旅行者もつられて楽しみましょう。

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( 左がリニューアルしたリベラ市場。右のアーケード内がリベラ停留所 )

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( リベラ橋。歩行者専用の眼鏡橋。リベラ市場のすぐ西にある。右にカーブするとアリアーガ劇場 )
198609ネルビオン川沿いリベラ橋傍
( リベラ橋1986年。左にちらりと見えます )

私は、この辺でアバンド地区へ戻ります。
旧市街で時間を取りたい人は、バルをはしごしたり、裏手の丘にあるベゴーニャ教会まで足を伸ばすようです。
ベゴーニャ教会:Basilica Begon*a は、ビルバオを起点に聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼歩行者の出発点です。残念ですが、このルートは、あまり人気がないようです。

余談ですが、私も、何を隠そう、時間を取って、”仏教徒でたどるサンチアゴ・デ・コンポステーラへの道”をやりたいのですが、出発点は、フランスの人気ポイント、サンジャン・ピエ・ドゥ・ポール:Saint Jean Pied de Port  と決めています。荒天時には死ぬかも知れないけれど、美しくも急峻なピレネー越えの峠道が、なんとも魅力ではないですか。
「あっ、巡礼の道を示す、ホタテ貝のマークを撮るの忘れた」

                                                              了





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